人には愛がなければ生きていけない
人には、自分以外の人に対して「思いやる心」や「愛する心」や「慈愛の心」のいずれかの心は、必ずあります。なぜなら人は誰かに愛されなければ生きていけません。
生まれた時には両親に愛され、特に母親からは格別に愛されてきてる筈ですし、それから今迄の人生に於いて、自分に関わるいろんな人々から愛されてきていると思います。また愛してきたでしょう。
ただ愛にも色々あります。例えば「思いやり」「愛」「慈愛」ですが、これらはどれも皆同じ様な愛と思いがちですが、文字が違う様に愛の意味も違います。では、それぞれの愛の違いはどういうものでしょう。
愛と、慈愛と、思いやり、の違いについて
愛とは
心から大切に思い、そのために献身すること、また自分の事の様に他人を愛せる心。
親、兄弟の慈しみ合う心や、広く人間や生物へのおもいやり。可愛がる事、大切にする事、好む事、惜しむ事、愛護。
男女間の相手を慕う情、恋、めでる事。
慈愛とは
ただの愛ではなく、キリストの純粋な愛です。キリストが人の子に対して持っておられる愛であり、単なる愛慕の情ではなく、最も気高く、尊く、強い愛です。
慈愛すなわち純粋な愛は、他のいかなるものよりも大いなるものである(1コリント13章)
この慈愛には、「哀れみ」「福祉」「奉仕」の誠心があります。
おもいやりとは
相手を思いやること、気の付く事、自分の身に比べて他人の身について思う事、相手の立場や気持ちを理解しようとする心。同情心。等があります。
人には慈愛が必ずなければならない
「愛」「慈愛」「思いやり」について言えば、人には「慈愛」が必ずなければなりません。慈愛がなければその人は何の価値もない、と言うことです。
慈愛について聖典にはこの様に書いてあります。
『慈愛は寛容であり情け深い、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みを抱かない、不義を喜ばないで真理を喜ぶ、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。そしていつまでも絶えることがない。』
また、思いやりについては、キリストのような人が周りに示す態度であり、職場、学校、サークル等に於いて、又とりわけ家庭における私達の言動の基盤とすべきものです。
家庭における言動については、親子間や兄弟間での会話の中で、特に親子間で思いやりも愛も無い様なこんな話しがあります。
例えば高校生以上の娘や息子が、出かけようとする時、母親が何気なく「何処に行くの?」「帰りは遅くなるの?」等と聞いた時、その返事が「どこだっていいじゃない、あなたに関係ないでしょう、時間だって分んないよ」という返答をする人がいます。
これは、二十歳前の若い子供だけでなく、家庭を持った年齢の息子や娘に、年老いた母が問いかけても同じです。
なぜこんな言い方になるのでしょう、母親としてはちょっと聞いておきたかっただけです。深く立ち入る気持など毛頭ありません。
母親の方には愛があるから聞いたのです。でも応えた子供には愛も思いやりも無い応え方です。だからその時の母親の気持ちは悲しみと傷心だけです。なぜこういう風に言えないのでしょう「ちょっと友達と食事にね、帰りはそんなに遅くならないつもりだから心配しなくていいよ」とね。
自らの生き方を吟味し、思いやりと慈愛と愛のある人になる事によって良い人間関係と幸せな人間関係になれるのです。