人の誕生と死が人生の始まりと終りではない
(ウエザーフォード・T・クレートンの話しから)
クレートン氏は長年医師として働き、また敬虔なクリスチャンとして奉仕もしてきました。彼は医師としてまだ間もない頃、若い母親の初めての出産を手伝う特権に預かりました。その時の話しからー
赤ちゃんが生まれると、生まれたばかりのかわいい赤ちゃんを、母親の腕に抱かせてあげました。
喜びの涙で頬をぬらした母親は、母親らしく 愛情深くしっかりと赤ちゃんを抱いていました。その姿は感無量です。
私達一人一人の人生はこの様にしてはじまりました。
しかし誕生が本当に人生の始まりでしょうか、いえ、この世では誕生と死が人生の始まりと、終りであると理解されていますが、そうではありません。
神の神聖な計画により、わたし達の誕生と死は、人生の旅路の節目にすぎないのです。
地上での生活は神の計画の一部であり、それは神の計画に不可欠な部分であり、この世と天が交わる神聖な瞬間でもあります。
この世に生まれる前私達は、神と共に住んでいました
わたし達は生まれる前は霊として、その霊の御父である神とともに住んでいました。
この世に生を受けるまでの長い間、わたし達は御父の元で学び、選択し、準備しながら御父と住んでいました。
天の御父は、わたし達を愛しておられるので、永遠の命という賜物を与えたいと願っておられます。しかしこの賜物を、無条件で与える事は出来ませんでした。
わたし達が御父に従い、御父の道を選ぶことを通して、自ら受ける必要がありました。そのために私達は、御父のみもとを去り、信仰と、成長と、向上という、また困難も伴う旅路を歩み出さなければなりませんでした。それが、この世に生れてくることでした。
地上に住む私達は、みな文字通り神の家族を構成する兄妹、姉妹であり、一人一人が御父である神にとって大切な存在です。
そのわたし達のために備えられた旅路は、「救いの計画」または「幸福の計画」と呼ばれています。
救いの計画について
この世に生まれるまえの前世において、御父はわたし達に、その計画について話されました。その計画を理解したわたし達は、歓喜しました。
計画は三本の柱のうえに建っています。
第一の柱は、この世の旅路の舞台となる地球の創造です。
第二の柱は、地上における私達人類の最初の両親である、アダムとエバの堕落です。それによってわたし達は誕生し、肉体を受けられる様になったのです。
第三の柱は、救い主イエス・キリストとその贖いでした。 つまり、わたし達はこの地上で生活するとき、いつも良い選択をするわけではなく、罪を犯すこともある事を、御父は御存じでした。そこで、そんな罪人のわたし達を救うために、イエス・キリストを遣わしました。
イエス・キリストという人
イエス・キリストは、神の独り子で、常に御父の戒めを守り、完全な人生をおくられました。
イエス・キリストは永遠の真理を教え、病人を癒し、目の不自由な人々の目が見えるようにし、死人を蘇らせながら、パレスチナの道を歩まれました。
イエスは、良き働きをしながら巡回され、全ての人々にご自身が示す模範に従うよう熱心に勧められた。
そしてキリストは、この世における最後の時に、ひざまずき こう祈られました『父よ御心ならばどうぞこの杯を私から取りのけてください、しかしわたしの思いではなく、御心が成るようにしてください』と、祈り苦しまれました。それほどイエスにとってこの業は苦しいものでした。
わたし達の罪、病、苦痛、弱さの代価を支払ってくださる イエスの業は、「ゲッセマネの園」から始まりました。
そのおかげで、わたし達がイエスの教えと共に歩むことを選ぶならば、その様な弱さにあっても決して独りになることはないのです。
イエス・キリストは、捕えられ、偽りの訴えによってとがめられ、暴徒の意に応じて有罪とされ、カルバリの十字架上において、「全人類の罪を贖う」ために、命をささげられました。
こうして、地上に生を受けた全ての人々のために、偉大な身代わりの贈り物となられたのです。
そしてキリストは、死から三日目に蘇られました。二度と死ぬことのない復活した完全な肉体をもって、墓から蘇られました。
こうして、キリストが復活されたことにより、わたし達も復活する事が出来るのです。
復活を待つ場所
癌を患っていた 一人の信仰篤い末日聖徒の女性の病室に入った時、彼女のそばに二人の娘が座っていました。
ベッドの傍らに近ずくと、彼女はもう苦しんでいない事が分りました。ちょうど亡くなったところだったのです。
その死の瞬間部屋には平安が満ちていました。彼女の娘達は悲しみながらも、顔つきは穏やかでその心は信仰に満たされていました。
母親は去ってしまったのではなく、故郷に戻ったことを知っていたからです。
わたし達が死ぬとその魂は体を離れ、旅路の次の段階である「霊界」に行きます。そこは 学び、悔い改め、赦し、成長の場所で、復活を待つ場所です。
復活した後のわたし達は、神の裁きを受けます。地上の生活での各々の行いに応じて、裁かれるのです。
その後で、信仰を持ち、悔い改め、最後まで耐え忍び神に従う事を、選ぶすべての人々は、自分達の旅路の終りが御父のみもとに帰り、御父と共に永遠に住むのです。
わたし達の存在は、誕生と死の間に起こることを、はるかに超えたものです。