悔い改めは続けることが必要です
人生でいつも勝利を得ていないと不安に思う人がいます。
友達とゲームをする中で、学校の成績の中で、スポーツの試合で、また料理をした出来栄えについて、絵のうまさを比較し、其の他何をするにも 自分が他の人よりも一番勝ちたい、と思っている人、勝っていないと気が済まないという人がいます。
しかし、たまたまスポーツではシーズン中に一度も負けないという事があるかも知れませんが、実際の生活ではそういう事はありません。
そんな中でつい、小さくも罪を犯してしまう事があります。たとえば、ちょっとズルをするとか、ちょっとゴマ化スとか、大きな罪ではないから良いと思い、バレなければ良いと思うのです。
そしてそれも実力とか、運のうちと考えてしまいます。
そのように実はすべての人が罪を犯しております。
でも、やはりそれは悔い改めるべきです。悔い改めは人を高め、気高くするものです。
不幸をもたらすもの、それは罪です。その事から逃れる方法が「悔い改め」です。悔い改めがなければ 人生には本当の成長も改善もありません。
悔い改めは、自由と確信、平安へと導いてくれます。
放蕩息子のはなし
聖書の中に、放蕩息子のたとえ話しがあります。
放蕩息子が、「本心に立ち返った」その瞬間に心を打つ出来事があります。まずはその物語を紹介します。
『ある人に二人の息子があった、ところが弟が父親に言った。「父よあなたの財産のうちで、私にいただく分をください」。そこで父はその身代を二人に分けてやった。それから幾日もたたないうちに弟は、自分の物を全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身をもちくずして財産を使いはたした。何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどい飢饉があったので、彼は食べることにも、窮しはじめた。そこで、その地方のある住民のところに行って、身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は豚の食べる「いなご豆」で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はいなかった。そして彼は本心に立ち返って言った。「父の所には食物の有り余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。立って父の所へ帰ってこう言おう 「父よ、わたしは天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ雇人の一人同様にしてください」。 そこで立って父の所へ出かけた。
まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄りその首を抱いて接吻した。息子は父に言った「父よ私は天に対しても、あなたに向かっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません」。しかし父は僕たちに言いつけた「さあ、はやく最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて楽しもうではないか、この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」それから祝宴が始まった。 ところが兄は畑にいたが、帰って来て家に近づくと音楽や、踊りの音が聞こえたので、一人の僕を呼んで「いったいこれは何事なのか」と尋ねた。僕は答えた「あなたのご兄弟がお帰りになりました、無事に迎えたというので、父上が肥えた子牛をほふらせなさったのです」。兄は怒って家に入ろうとしなかったので、父が出てきてなだめると、兄は父に向って言った「私は、何か年もあなたに仕えて、一度もあなたの言いつけにそむいた事はなかったのに、友達と楽しむために子やぎ一匹もくださった事はありません。それなのに、遊女どもと一緒になってあなたの身代を食いつぶした、このあなたの子が帰ってくると、その為に肥えた子牛をほふりなさいました」。すると父は言った「子よあなたはいつも私と一緒にいるし、また私のものは全部あなたのものだ。しかしこのあなたの弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのが当たり前である。」(ルカ15:11―32)
悔い改めはすべての人の為にある
この話には心を打たれるものがあります。
放蕩息子が本心に立ち返った時、また豚小屋に座って豚の食べるイナゴ豆で腹を満たしたいと思った時、自分が父親からもらった財産だけでなく、自分の人生も無駄にしたと言うことに気付いたのです。
実は、わたし達は皆 放蕩息子と同様です。私達は皆、通常は何度も本心に立ち返り、そして家に戻る道を選ぶ必要があります。それは生涯を通じて毎日行う選択です。
悔い改めは、重大な罪と結びつけて考えやすいですが、それだけではありません。悔い改めはすべての人の為にあります。すなわち、禁じられた道に踏み込んでしまった人は勿論、細くて狭い道に入り力強く進む必要のある人の為にもあります。
悔い改めは、わたし達を正しい道に導き、正しい道にとどめます。悔い改めは前向きなものです。
まとめ
自転車はペダルを踏むのを止めると倒れます。 この同じ原則が悔い改めにも当てはまります。それは生涯にわたって続けるものであり、一生に一度のことではありません。
なぜなら、わたし達は毎日罪を犯しております。友達に、母親に、伴侶や子供に、と生活の中でいろいろな場面で、ちょっとした嘘は言っているでしょう。
または、道路を歩いていて、小銭を拾ったらポケットに入れてしまう事もあると思います。
仕事の手抜きをしたり、お金の計算をごまかしたり、それらの大なり小なりの罪に気が付いた時は、悔い改めを先に延ばさないでください。
そして、同じ罪は繰り返さないことが大切です。
それでも毎日悔い改める事柄は出てくるものです。
だから、悔い改めは生涯にわたって行うものです。
私達がこの世に来たのは、進歩成長をするためです。
これは一生続く過程です。この間にすべての人は罪を犯すので、悔い改めが必要となります。
聖書にはつぎのように記されている。
「善を行い、罪を犯さない正しい人は世にいない。」(伝道7:20)