愛は心からの献身、思いやりの心です
イエス・キリストが十字架にかけられる前日の「最後の晩餐」のとき、イエスは新しい戒めを弟子達に与えて言われました。
『わたしは新しいいましめをあなたがたに与える、互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。』(ヨハネ13:34-35)
(ホセ・L・アロンの子供の頃のお話です)4歳のホセはいつも一緒に遊んでくれているお婆ちゃんに聞きました。「おばあちゃん、ぼくを愛してる?」と、おばあちゃんは「そうよホセ、心から愛してるわ」と答えました。すると「僕を愛してるって、どうしてわかるの?」と聞き返しました。お婆ちゃんは自分が 孫に抱いている気持ちを伝え、これまで彼の為にしてきた事や、これからも彼のために喜んでしたい事を、すべて話しました。
それから おばあちゃんも孫に同じ質問をしました。
「ホセはおばあちゃんを愛してる?」「それがどうしてわかるの?」と
ホセは「愛してるよ、だって心にそう感じるんだもん」と無邪気で誠実な返事が返ってきました。
でも、本当に孫は祖母に示す愛のこもった行いは、感情だけでなく 行いと一体であることを教えてくれます。
愛は赦すこと
慈愛とよばれるキリストの純粋な愛は、行動し、奉仕を行うよう 私達を駆り立てるだけでなく、状況に関係なく、赦す強さも与えるものです。
これは、ある人の人生を変えることになったお話ですが、2008年アメリカのある家族におこった事実です。
お母さんと4歳の子供が道路を歩いておりました、子供は自転車に乗っていました。
二人が道路を横断しようとした時、一台の車がゆっくり左折してきて子供を轢いてしまいました。急いで助けましたが外傷はありませんでした。でも、非常に息苦しそうでした。すぐに病院に運ばれました。
すぐ連絡を受けた父親が、あわてて病院に駆けつけました。そして医師の処置でしばらく両親と子供は一緒に時間を過ごすことができました。しかし、残念ながら子供は帰らぬ人となてしまいました。
悲しみにうちひしがれた両親は、車を運転していた青年について話し始めました。その青年は、ちょうど一つ向こうの通りに住んでいて、同じ区域内に居たにもかかわらず、お互いに知りませんでした。
次の日 彼の自宅で、車を運転していた青年とその両親に会いました。
この青年は善良な青年である事がわかりました。そこに集った彼らは長い時間 ともに涙を流していました。
起こったことは不慮の事故であったことが分っています。子供を亡くした両親はこの青年を赦しました。
そして善良な青年を愛することができたのです。この青年の心の苦しみがどれほどの物か分ったからです。
これは、真の愛と赦しのお話です。
赦すことは簡単なことではありません
私達はおなじように、ほかの人々に仕え、赦すときに喜びと幸福を感じることができるのです。
自らの生き方を吟味し、思いやりと、愛と、慈愛のある人になることによって、救い主の模範に従うことができます。
私達が互いに愛し合おうとするとき、神は助けを与えてくださいます。
そして真の愛をもってほかの人に仕え、赦すことによって私達が癒され、自分自身の問題を、克服する強さを受けることができます。
しかし赦す事は、相手や場合によっては簡単なことではありません。とても難しいと思います。だから、それが出来たとき祝福があるのです。
まとめ
様々な状況のゆえに、多くの苦しみに取り巻かれている今日の世界では、「愛しています」という言葉にユーモアのある絵文字や、すてきな画像を添付してメッセージ文を送る事は、好ましくそれなりに良いことです。
でも、私達の多くに必要な事は、私達の手と足を使って困っている人を助ける事です。
奉仕のない愛は、実際には死んだものなのです。