キリストのような真の奉仕とは
(チェリル・A・エスプリンの話し参照)
『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい』(ヨハネ:13-34)
この言葉は、イエス・キリストが大いなる贖いの犠牲をささげる(十字架にかけられる)ほんの数時間前に語られた言葉です。この犠牲は、世界の歴史の中でも最も壮大に表された純粋な愛 だといわれます。
イエスは、愛することを私達に教えられただけでなく、その教えの通りに生涯を送られました。その教導の業の間、つねに「よい働きをしながら巡回され、すべての人々にご自身が示す模範に従うよう熱心に勧められました。
イエスはこう教えられました『自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう』
この意味は、「自分を捨てて人に奉仕しなければ、自分自身の人生の目的などはほとんどない」ということです。
自分のためだけに生きる人は、ついには枯渇してしまい、命を失ってしまいます。一方自分を捨てて人のために奉仕する人は、成長し繁栄して、実際に自分の命を救うのです。
キリストのような真の奉仕とは、自分を顧みず人に焦点を当てる事です。
体の不自由な夫の世話をしていたある女性は、こう説明しています。「自分の果たすべきことを重荷と考えてはなりません。真の愛とは何かを学ぶ機会だと考えるのです。」
鏡をすて、窓を通して見る
ある女性教師が、「どのような人物になるべきか」ということについて、この様に教えました。
「人々と知り合い、奉仕するため手を差し伸べる人になりましょう。鏡を捨て、窓を通して見るのです」 この事についての実験にその教師は、
若い女性を選び、前に出て来て 自分と向かい合わせに立ってくれるように言いました。そして鏡を取り出し、若い女性と自分の間に鏡を置きました。すると 女性教師が若い女性に話しをしようとしても、鏡を覗き込む事になります。当然 向かい側の相手と心の通じ合う会話はできません。
これは、自分のことばかり気にかけ、自分自身と自分の必要しか見えていないので、人々と交流し奉仕することが出来ません。
次に鏡を取って、窓枠をとりだし自分と若い女性の間に置きました。彼女の眼の焦点が窓枠を通して若い女性に当てられ、真の奉仕をするには相手の必要と、感情に焦点を当てる事が不可欠だと理解できました。
私達はしばしば、自分の事ばかりを気にかけ生活に追われ、奉仕の機会を探しながらも鏡を見つめているために、奉仕の窓を通してはっきりと見えていないことがあります。
神のために務める
わたしたちの周りには、家族、友人、知人、他人を問わず、わたしたちの注目、励まし、支え、慰め、親切を必要としている人が大勢います。
わたしたちは、地上で神の御手に使われる器であり、わたし達には御父の子供達に仕え、彼らを高める責務があります。神はわたし達一人一人を頼りにしておられるのです。
この話しを聞いている皆さんの中には、家族の必要を満たすだけで精一杯だと感じている人がいるかも知れません。その様な日々の平凡な仕事を行うときにこそ、「神のために務めている」ことを忘れないでください。
また、もしむなしさを感じている人がいたら、ぜひ隣人や地域社会に目を向けて、誰かの重荷を軽くする機会を探してください。心が満たされるかもしれません。
わたし達は皆、奉仕を日々の生活の一部とすることができます。
わたし達は、争いの多い世界に生きています。批判や噂話を慎み、人を裁くことをやめ、代わりに ほほ笑み、感謝を伝え、忍耐と思いやりを持つなら、わたし達は奉仕しているのです。
奉仕するために自問する
あるいは、時間と目的を持った計画、また特別に力を必要とする奉仕もあります。それでもその様な奉仕は、あらゆる努力を注ぐ価値のあるものです。
奉仕をどの様にすれば良いか分らないとき、こう自問することから始めてみましょう。
1、わたしが今日助けることのできる人は誰だろう。
2、わたしには どれだけの時間と手段があるだろうか。
3、人のため どのように自分の才能と技能を使えるだろうか。
4、家族として、何ができるだろうか。
わたし達は、人生に意味を与えてくれるのは、神と隣人への愛だということを、知る様になります。
わたし達が救い主の模範と勧告に従い、愛をもって人に手を差し伸べる事ができますように。