赦しは癒しの原則です
(ケビン・R・ダンカンの話しから)
神から出るあらゆるものには、愛と光と真理が含まれています。しかし、わたしたち人間は堕落した世の中に生きており、そこは時折 真っ暗で、混乱に満ちています。
わたし達は誰かが間違いを犯したり、不正をおこなったり、罪を犯したりしても、驚かなくなっています。その結果、誰かの不注意な行いや、人を傷つける行いや、あるいは罪に当たる行動の犠牲になったことが、一度もない人はいません。誰しもその様な経験をしています。
それでも神は、その子らを愛し憐れみの心を抱いておられますから、時折騒然とするこの世の経験から、わたし達が切り抜けられるように、道を備えてくださいました。
人の過ちにより、被害を受けた全ての人に逃げる道を、与えてくださっているのです。それは「人を赦すことが出来る」という教えです。
わたし達は一度は被害者となるかもしれませんが、憎しみや、敵意、心の痛み、恨み、さらには復讐心という、重荷を負うことにより 二度も被害者となる必要はありません。
その為には、わたし達は赦すことによって、自由になれるのです。人を赦す事が出来ないと不必要な痛みがいつまでも残ります。
神は公平な罰を与えられる
きっと、ほとんどの人は自分を傷つけた人を、赦したいと望んでいる筈です。しかし、なかなか出来ないと感じています。
また、不当な扱いを受けると、すぐにこう言いがちです「あの人は間違っている。罰せられるべきだ、正義はどこにあるんだ」そして、もし自分が相手を赦せば、正義はなくなり、その行為の当事者は罰を免れる。と思ってしまうのです。しかし これは事実ではありません。
神は公平な罰を全ての人に与えられます。なぜなら憐れみは正義から何かを奪うことはできないからです。
神は愛を込めてわたし達に、このように断言しておられます。
『裁きはわたし一人に任せなさい、それはわたしのする事であり、わたしが報復するからである。しかし平安があなた方にあるようにしなさい』
被害者になったときには、忠実であれば神はわたし達が経験するあらゆる不公平に対して、埋め合わせをしてくださる という知識に、大きな慰めを見出すことができます。
人を赦そうと努めるときに、わたし達は皆、霊的な成長の過程にあるものの、そのレベルは人それぞれに異なる事を心に留めるようにしましょう。
肉体の変化や成長は容易に見えますが、霊の成長は見えにくいものだからです。
人を赦すための一つの鍵は、神の目で人を見ようと努めることです。折に触れ、神は幕を開けてわたし達を傷つけた人の、心や魂、霊を見る事のできる賜物を授けてくださいます。
そのような新たな視点により、その人に対する愛で満たされることもあります。
理解と平安を深めること
わたし達は氷山を見るように、自分を傷つけた人を見がちです。氷山の一角だけを見て水面下に目をやりません。
その人の身に、どのような事が起こっているかを知りません。その人の過去や、その人の悩み、その人が抱えている痛みを知りません。
ただ誤解をしないでください、赦すことは大目に見ることではありません。その人に悩みや痛み、弱さがあるという理由で、その人の悪い行いを正当化したり、自分を不当に扱う事を許容したりすることではありません。そうではなく より広い観点から物ごとを見るときに、理解と平安を深めることが出来るということです。
確かに霊的な成熟度の低い人は、深刻な過ちを犯すかもしれません。しかし、誰も自分が行った最悪の行為により、どのような人物であるか、判断されるべきではありません。
神は完全な判士であられます。水面下をご覧になります。全てを御存じで全てをご覧になるのです。神はこの様におっしゃっています。
『主なるわたしは、わたしが赦そうと思うものを赦す。しかしあなた方には、すべての人を赦すことが求められる。』
キリストご自身も、汚名を着せられ、残忍な暴行をうけ、打たれ、十字架上で苦しまれていたまさにそのときに、こうおっしゃいました。
『父よ彼らをおゆるしください、彼らは何をしているのか分らずにいるのです。』(ルカ23:34)
互いに思いやりを持たなければならない
わたし達は時折、近視眼的に自分と同じ様に行動したり、考えたりしない人に対して、不満をつのらせがちです。敵のスポーツチームを応援している政治的見解が、異なる宗教的な態度を執ることがあります。
みなさん!人生というレースの中で、勝者となるときには思いやりを持って勝ちましょう。敗者となるときには、寛大な心で負けを認めましょう。
なぜなら、互いに思いやりをもって暮らすならば、終りの日に報いとして、神の思いやりすなわち、神の恵みを頂けるからです。
わたし達は皆、誰かの過ちの被害者になる事がありますが、傷つける側になる事もあります。誰にも至らないところがあり、恵みと憐れみ、赦しを必要としています。
自分の罪や、人を傷つけたことを赦して頂けるかどうかは、自分が人を赦すかどうかに懸かっていることを、覚えておかなければなりません。
救い主はこのようにいわれました。
『もしもあなた方が、人々の過ちを赦すならば、あなた方の天の父もあなた方を赦してくださるであろう。 もし人を赦さないならば、あなた方の父もあなた方の過ちを赦してくださらないであろう』(マタイ6:14-15)
罪をおかした人を赦すならば、自分の罪も赦されます。