あなたは謙遜でありなさい
(ステーブン・E・スノー の話し参照)
謙遜とは、辞書では「控え目な態度で振る舞うこと、へりくだること」とあります。自分の脳力や価値を低く評価し、控え目に振る舞うことです。
しかし、卑下することではありません。
人は謙遜であれば、さらに善い父母、息子、娘、夫婦、隣人、友人になることが出来ます。
救い主(イエス・キリスト)は 弟子達に、天の王国に入るためには幼子のようにへりくだらなければならない、と教えられました。
自分の子供達を育てるとき、彼らが大人に成熟する過程で謙遜にあり続けるように、助けなければなりません。
不親切や厳しすぎる躾で、子供の心を傷つけることによって、謙遜にさせるのではありません。
子供の自信と自尊心を養いながら、無私の心や親切、従順について、高慢にならないことや、礼儀正しさ、慎み深さなどの、特質を教えなければなりません。
きょうだいや友人の成功を、ともに喜ぶことを学べるようにしなければなりません。
私達は真心から他の人の成功を願うようでなければなりません。と教えています。さもなければ、子供達は自己主張ばかりして、人を出しぬき、仲間の成功に対して、嫉妬や憤りを抱く様になります。
しかし、謙遜さは子供に教えるだけのものではありません。私達も皆、さらに謙遜になる努力をしなければなりません。
謙遜であれば罪や間違いを犯したときに、打ち砕かれた心を持つことが出来、悔い改めることができます。
謙遜な態度で語るなら家庭内の争い事は減り、安らぎが増す
その一方で不必要なプライドは、家庭の絆を弱め、結婚生活を破綻させ、友情を壊します。
家庭の中で不和が高まっている、と感じるときこそ謙遜さを思い出すことが肝要です。
「ごめんなさい」「わたしが浅はかだったわ」「あなたはどうしたいの」「思慮が足りなかった」「あなたを誇りに思う」と、へりくだって言うことで、心痛をどれほど回避できるか考えてみてください。
もし、これらの言葉を謙遜な態度で語るなら、家庭内の争い事は減り、安らぎが増すでしょう。
日々生活していくこと自体が、へりくだる経験となることがしばしばあります。
交通事故や病気、愛する人の死、人間関係のもつれ、経済的な逆境によって圧倒されることがあります。
これらの難しい経験をもたらす原因が自分になくても、あるいは自分の悪い選択や至らない判断力のせいだとしても、この様な試練は全て人を謙遜にします。
息子の事故
何年も前に、当時15歳だった息子が頭に大けがをしてしまいました。一週間以上昏睡状態が続き、わたしたちは胸を痛めました。
医師からは、容態がどうなるか分らないと言われました。ですから息子の意識が戻ったとき、わたし達は大喜びしました。
これで全てうまくいくと思っていました。ところがそうではありませんでした。息子は目覚めたとき、歩いたり話したり、自分で食べたりすることが出来ませんでした。
事故に遭う前のことは殆ど覚えていましたが、事故後の出来ごとを覚えておくことが出来ませんでした。わずか数分前に起きたことさえ、記憶にとどめられなかったのです。
しばらくの間、わたし達は息子が15歳の心の中に、閉じ込められたままになってしまうのではないかと、心配しました。
事故に遭う前、息子はいろいろな事を簡単に出来ました。運動がとくいで、友達も多く良い成績を修めていました。
以前は将来が楽しみでしたが、今となっては、彼には前途有望な将来がないのかもしれない、と危惧しました。少なくとも息子の記憶に残るような未来はなさそうでした。
事故の後は基本的な動作も、一苦労だったので、息子にとって謙遜を学ぶ時間となりました。両親にとっても同じでした。
息子のリハビリが、何カ月も、場合によっては何年もかかることが分り、わたし達は必然的にへりくだりました。
さらに辛かったことは、息子が以前の息子に戻れないことが、少しずつ現実味を帯びてきたことでした。
やがて謙遜になって物ごとを見るにつれ、このつらい時期に息子が経験したささやかな奇跡に、気づきはじめました。
息子は徐々に良くなっていきました。態度や物の見方がとても前向きでした。
今、息子はすばらしい伴侶と結婚し、5人のかわいい子供がいます。彼は教師として熱心に教え、地域や教会に貢献しています。
何よりも大切なことは、ずっと以前に身につけた謙遜さの精神をそのまま持ち続けていることです。
謙遜さを身につけるためには・・
謙遜さを身につけるにはどうすれば良いでしょうか、謙遜になるためには、自分が他に頼って生きているということを、心に留める必要があります。
では、誰に頼っているのでしょうか、
神に頼っているのです。そのことを心に留めておくためには、心を込めて常に怠ることなく、感謝の気持ちをもって祈る事です。
謙遜とは、自分が神に頼らなければならないことを、感謝の思いをもって認めること、すなわち自分が常に神の支えを必要としていることを、理解することです。
まとめ
謙遜とは、自分の才能や能力が、神から与えられた賜物であることを認めることです。
それは、弱さ、臆病、恐れを表すものではなく、真の力の源がどこにあるかを、自分が知っているということを、示すものです。
謙遜でありながら、恐れを知らない者となることができます。
謙遜でありながら、勇敢な者となることができます。
イエス・キリストは最も偉大な謙遜の模範です。この世で教導の業に携わっていたとき、イエス・キリストは御自分の力が、御父に頼ることで得られるものであることを、常に認めておられました。
イエス・キリストは、こう語っておられます。
「わたしは自分から何事もする事ができない。わたし自信の考えでするのではなく、わたしを遣わされた方の、み旨を求めているからである」(ヨハネ5:30)