後悔先にたたず
私は最近自分の歩んできた人生を振り返り、思い起こしてみると失敗ばかりでした。
それは今思うと、人生の困難な道ばかりをあえて選んできた為でした。そしてなぜその道を選んできたのか、と悔いております。
では、なぜ運命の岐路に立ったとき、私はここ現在に繋がる辛い道を選んできたのかを考えて見た時、その岐路に立った時私は深く考えずに、その時点では「こっちが楽そうだ、幸せになれそうだ」と思って選んでいたのでした。
そして今から思うと、その考えと選びは間違った方向ばかり選んでしまっていたのでした。人には選択の自由が与えられているからです。
でも神様はいつも私達を見ています。そして人生の岐路に立った時、その人に良い方向を教え示すのではなくて、その人の選びに任せております。
そしてその選びが失敗した時 後になって人は気づくのです。そのとき私のように悔いたり、嘆いたりするでしょう。けれどそんなとき、わたし達は神様に祈るならば、その人のために神はもう一度そこから、良い方向を示してくれるでしょう。ただし、最初の方向の幸せとは違ってきます。
次の聖句について考えて見てください。
「求めなさい、そうすれば与えられるであろう。捜しなさいそうすれば見出す出あろう。たたきなさいそうすれば開かれるであろう」「すべて求める者は与えられ、捜す者は見いだし、叩く者は開かれるからである」(マタイ7:7-8)
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人はとがめもせずに、惜しみなくすべての人に与える神に願い求めるがよい、そうすれば与えられるであろう」(ヤコブの手紙Ⅰ:5)
「見よ、あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって、わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう」(教義と聖約8:2)
では、これらの聖句を心に思い計りながら祈ったとき、その答えや神からの啓示は、どのようにして受けられるのでしょうか、
それは聖霊からの導きによって来ます。だから祈ってみてください。何かを感じるはずです。
でも、熱心に祈っても特に気持ちに何の変化も起こらず、胸の内が温かい感じも無いとしても、自分の決意について良い気持ちや、平安を感じていたならば、自分の正しいと考えた事を実行すればよいでしょう。
悪を選ばず善を選ぶ
世の中に於いて迷うとき、善と悪の区別はだんだんと難しくなってきていると思います。なぜならグレーゾーンが増えてきているように思えるからです。
狭い視野からだけ見ていると、今の時代に流布している間違った主張の多くが、あたかも正しいことのように思えてしまいます。
しかし古いゴミを真新しい紙に包装して、独創的な宣伝で再登場させたところで、ゴミであることに変わりはありません。ですから善と悪の識別を複雑な作業にする必要はありません。
私達には、キリストの光という祝福があるのです。善悪をわきまえることが出来る全ての人に、キリストの御霊が与えられています。
その判断の方法は、「善を行う様に誘い、また、キリストを信じるように勧めるもの」は、すべてキリストの力と賜物によて、送りだされているのです。ですからそれが神から出ていることを、完全に理解してわきまえる事ができます。
しかし、「悪を行うように、キリストを信じないように、神に仕えないように」と、人に説き勧めるものは、何であろうとそれは悪魔から出ていることを、完全に理解してわきまえることができます。悪魔はこのように働き、誰にも善を行うように説き勧めないのです。
最後まで楽しむ
ところで人生最後まで耐え忍ぶように、といわれますが、「最後まで絶え忍ぶ」とは、学び続け成長しつづけることです。
イエス・キリストの福音では、絶えず悔い改めて変わり続けることが求められます。公園の散歩ではなく、坂道を登ることなのです。
賢明に秩序正しく行うことです。人が自分の力以上に早く走る事は、要求されてはいないんです。
しかし、賞を得るために勤勉に励むのは必要なことです。したがって、何事も秩序正しく行うようにしなくてはなりません。
ある若いスポーツ選手が、「第二の風」という現象があると教えてくれました。疲れているときでも、継続するための新たな力が、湧いてくることを感じることです。
最後まで耐え忍ぶ のではなく、第二の風、つまり霊的な風を見つけて、最後まで楽しむようにするとよいでしょう。
聖霊の促しに従い、悪を選ばず善を選び、ほかの物ごととうまく兼ね合いをとりながら、自分の責任を果たすことによって、岐路では良い方向を選ぶ事ができるでしょう。