ディーター・F・ウークトドルフの話し参照
わたしたちは感謝することができる
人の状況は一人一人異なり、誰もが人生の中で他の人と違う経験をします。それでも人生で味わう苦痛を取り去ってくれるものがあります。
人生をもっと幸せと喜びに満ちた、更には栄光に満ちたものにするために、できることが一つあります。それは感謝することです。
悲しみの重荷を負っている人に、神に感謝をささげるように勧めるのは、世の知恵に反しているように聞こえるかも知れません。が、しかしつらい思いを脇において、感謝の杯を手に取る人は、それを飲む時に癒しと、平安と理解を授かり清められます。
なぜ神は、感謝するように私達にお命じになるのでしょうか、
神の戒めはすべて、私達が祝福を受けられるようにするために、与えられます。
天の御父は、感謝の精神を育むという選択が、わたしたちに真の喜びと、大きな幸せをもたらすことを、ご存じなのです。
物ごとに対して感謝する
しかし、「自分の世界が崩れようとしているときに、何に対して感謝すればよいのでしょうか」と言う人がいるかも知れません。
人生が順調に思えるとき、物ごとに対して感謝するのは、簡単です。では、自分の望むものが手の届かない所にあるように思えるときはどうでしょうか、
感謝することを一つの性質として、現実の状況がどうであろうと、「自分の置かれた状況にあって感謝する」ことに意識を向けるということです。
次のような古い話しがあります。
あるウエイターが、食事を楽しんでもらえたかどうかを客に尋ねました。客は、何もかも良かったがパンがもっと多ければ尚良かった。と答えました。 次の日にその男がまた来ると、ウエイターはパンの量を2倍にし、枚数も2切れから4切れに増やして出しましたが、それでも男は満足しませんでした。 翌日ウエイターは、パンをさらに2倍にしましたが、功を奏しませんでした。 4日目 ウエイターは、何としてもその客を満足させようと心に決めました。そこで長さ3メートルもあるパンを取り、二つに切って笑顔でその客に出しました。 ウエイターはその男性客の反応を見るのが、待ちきれませんでした。 食事の後男性は見上げて言いました「いつも通りおいしかったです。でも、パンがまた2切れになりましたね。」
ここで学ぶ事は、感謝をしない人は、たとえ欲しいと思っていることを、どれだけ与えられても、足りないものやマイナスの部分だけ見て、いつまでも満足しないのです。
自分の置かれた状況にあって感謝する
どのようなことがあろうと、感謝するという選択ができるのです。
自分の置かれた状況にあって、神に感謝するとき私達は艱難の中で、穏やかな安らぎを味わうことができます。
悲しみの中で、なお心を高めて神を賛美することができます。
痛みのなかでも、キリストの贖いによって喜ぶことができます。
つらい悲しみがもたらす寒さの中で、天に抱かれたかのような、ぬくもりを感じることができます。
時々 感謝は、問題が解決した後でするものだと考えることがありますが、それは何と近視眼的な見方でしょう。
雨を神に感謝せずに、虹を待ち望んでいるようでは、人生においてどれ程多くのものを、見過ごしていることでしょうか
悩み苦しんでいる時に感謝の気持ちを持つ とは、自分の置かれた状況を喜ぶという意味ではなく、信仰の目で今日の試練の先にあるものを見る という意味です。
口先だけでなく心から感謝するのです。そのような感謝は、心を癒し思いを広げてくれます。
信仰の行いとしての感謝
自分の置かれた状況にあって感謝するとは、神への信仰を行いに表すことです。
感謝することによって、わたしたちは愛する救い主の模範に従います。
主は、「わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」と言われました。
真の感謝は、希望と証の表われです。そのような感謝は、人生の試練の意味は常に分るわけではないことを認め、いつの日か分るだろうと信じることからもたらされます。