トーマス・S・モンソンの話し参照
自分の歩む道に気をつける
私達は皆、霊の世界を去って現世と呼ばれるこの難しい段階に入ったときから、素晴らしいかけがえのない人生の旅を始めました。
人がこの地上に存在する主な目的は、骨肉の体を得て、天父の下では経験できないことを経験し、神から与えられた戒めを、この世で守るかどうか試されることです。
わたしたちは地上に来る時、選択の自由という神から頂いた偉大な賜物を、携えて来ました。多くの点で自分で選ぶという特権があるのです。
この世にあってさまざまな事を経験する事によって、いろいろな事を学びます。善と悪を見分け、苦楽を味わい、どう判断するかが、行く末を左右することを学びます。
私達は霊界から現世に来た時、必ずまた天の御父のもとに帰って来たい、という思いを持っていました。それは、御父が計画して下さった昇栄に与る為です。
その御父のみもとに戻る道は、自分で見つけて歩まなければなりません。が、御父は指示も導きもなしに、私達を地上に送られた訳ではありません。
必要な手段を与えてくださっていますし、助けを求め、最後まで耐え忍んで、永遠の命を得るために、力の限り努力するならば助けてくださいます。
イエスを模範としてその歩みに倣う
この人生の歩みの中で、私達は指針となる神の御子の御言葉があり、その聖文を読む事ができます。又、神の預言者の勧告と教えがあります。
従うべき完全な模範は、救い主イエス・キリストの模範です。救い主自らこう言っておられます「わたしに従ってきなさい」「わたしがするのを見たその行いを、あなたがたもしなさい」「あなたがたはどの様な人物であるべきか、まことに私のようでなければならない」 そしてイエスは、道を示し、導かれました。
イエスを模範として仰ぎ、その歩みに倣うならば、天の御父のみもとに再び無事に帰り、永遠に神と共に住むことが出来るのです。
イエスは何をしたでしょうか、どんな奉仕をしたでしょうか、イエスは、それぞれの人に合った奉仕をされました。人の霊的、及び物質的な必要を満たされました。どの様に満たされたか、
「微笑みかけ・共に話し・歩み・耳を傾け・時間を割き・励まし・教え・食べ物を与え・赦された」など、様々な奉仕をされました。
イエスの行動に倣いその模範に従うとは
ある女性は、聖地を訪れたときのことをこう言っていました。「私はイエスの歩まれた所を歩いたのよ」この女性は、イエスが住んで教えを説かれた場所の近くに行きました。
恐らく、かつてイエスが立たれた岩の上に立ち、イエスが見渡された山々を見たのでしょう。彼女にとってはその経験そのものが、胸躍るものでしたが、イエスが歩まれた場所を自分の足で歩くことは、大切なことではありません。
イエスがこの世でした行動に倣い、その模範に従うことが大切なのです。
イエスはある金持ちの男性に「わたしに従ってきなさい」とお求めになりました。が、それはイエスの後について田園地帯の山や谷を巡ってほしいという意味ではありませんでした。
イエスが歩まれた場所を歩くために、ガリラヤの海辺や、ユダヤの丘を歩く必要はありません。
主の御言葉によく耳を傾け、主の御霊を心に満たし、その教えを生きる指針として現世の旅で、主に従うことを選んでください。
そうすることによって、私達はみな、イエスが歩まれた道を歩むことができます。イエスの模範は道を照らします。
イエスはこう言われました。「わたしは道であり、心理であり、命である」
イエスが歩まれた道について調べてみると、私達自身が人生で出遭うのと同じ、多くの問題にイエスも直面されたことが分ります。
例えば、イエスは「失望」という道を歩まれました。多くの失望を経験されましたが、最も深い失望感は、民への務めを終える頃に、エルサレムについて嘆かれた御言葉に表れています。
イスラエルの子らは、イエスが差し出された翼の下に来て庇護されることを、拒みました。間もなく捨てられ滅ぼされるこの町を見渡して、イエスは深い悲しみに襲われ叫ばれました
「ああエルサレム、エルサレム預言者達を殺し、おまえに使わされた人々を石で打ち殺す者よ、ちょうど雌鶏が翼の下にひなを集めるように、わたしは お前らの子らを幾度集めようとしたことであろう、それだのにおまえたちは応じようとしなかった。」
また、イエスは誘惑の道を歩まれました。40日40夜断食されて弱っている時、サタンは最大限の力を傾け、最も魅力的な詭弁を使ってイエスを誘惑しました。イエスはそれに屈することなく、どの誘惑もはねのけられました。そして最後に言われた言葉は「サタンよ退け」でした。
また、イエスは苦しみの道を歩まれました。この世の最後の日、ゲッセマネの園でイエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られました。そして残酷な十字架上でのイエスの苦しみは、誰も忘れる事はできません。
人は失望の道も苦しみの道も歩みます
人は誰でも 失望の道を歩むものです。好機を逸したことや、権限の使い方を誤ったこと、あるいは愛する人や、自分自身の判断が原因となる事もあるでしょう。
誘惑の道も誰もが通ります。聖典にはこうあります。
「また悪魔が人の子らを誘惑するのは必要である。そうでなければ人の子らは、自ら選択し行動する者とはなれない」
同様に 苦しみの道も歩みます。しかし主の僕である私達は、甚だしい痛みと苦しみの末に、現世の生涯を終えられたイエスほどの、苦しみを受けることはないでしょう。
行く手に深い悲しみがあるかも知れませんが、大きな幸せを見いだすこともできます。イエスとともに従順な道を歩むこともできます。この道はいつも楽に歩けるわけではありませんが、イエスのように、奉仕の道を歩むこともできます。
イエスは人々の中で、教え導かれました。その生き方からは善の光が放たれています。歩けない人の足に力を与え、見えない人の目を開き、聞こえない人の耳を開かれたのです。
救い主がわたしたちに授けられた他の教えは、聖典に収められており、いつでも読むことができます。心と行いにおいて道徳的に清くあるように、教えられました。
私達が主の御言葉を学び、主の教えに従い、主の歩まれた道を歩んで、キリストを生活の中心にするよう努めるならば、主が持っておられるのと同じ、永遠の命を与えると約束されております。