人生の目的を知り人間関係を学ぶ

人生の目的を知り、その目的に至るまでの生活や人々との関わり方について、学ぶ事が出来る。

信仰と愛

豊かな人生とは何か、それを見出すには信じて、愛して、行うことです

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人生はむなしくて無意味か

(デイーター・F・ウークトドルフの話し参照)

旧約聖書に出て来る古代の偉大な「ソロモン王」は、歴史上最も外面的に成功を収めた人物の一人です。

富や、権力、崇敬、誉れなど、あらゆるものを手に入れていたように思われます。しかし、身勝手でぜいたくな生活を数十年間送った後、ソロモン王は、自分の人生をどの様に言い表したでしょうか。

「いっさいは空である」と述べています。

この人は、あらゆるものを手に入れたにもかかわらず、最後には幻滅を感じ、悲観的となり、幸せではありませんでした。

ドイツ語に「Weltschmerz(ウエルトシュメルツ)」という言葉があります。大まかにいうと、世界が本来あるべきだと、思っている状態より、劣っている ということを、思い悩んで抱く悲しみを意味します。

悲しみが音もなくわたし達の人生に、忍び寄るとき、昼にあふれた悲しみが、夜に深い影を落とす時、愛する人や、自分の周囲に悲劇が起こり、不当な仕打ちを受けるとき(ウエルトシュメルツ)は やって来ます。

そして孤独で不幸な旅路を歩み、苦しみで心が暗く、平穏でなくなるとき、わたし達は「人生はむなしくて無意味だ」というソロモンの言葉に同意したくなってしまうかも知れません。 しかし

大きな希望

幸い希望はあります。空虚や空しさ、人生の(ウエルトンシュメルツ)には、解決策があります。

誰もが感じるかも知れない、この上なく深い空しさ、絶望、落胆に対してさえも、解決策があります。

それは、イエス・キリストの福音が持つ、人生を変える力の中に、また霊的な病から わたし達を癒す救い主の贖いの力の中に、希望を見出せます。

イエスはこう宣言されました。「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」

自分の必要や、自分の業績に焦点を当てることではなく、主の方法に従い、主の業に携わることによるのです。

自分のことを忘れて、キリストの偉大な大義に携わることによって、豊かな人生を見出すのです。

キリストの大義とは何でしょうか、それは、主を信じ、主が愛されたように愛し、主が行われたように行うことです。

イエスは、「良い働きをしながら巡回されました」貧しい人、見放された人、病気の人、恥じ入っている人、の間を歩かれました。無力な人、弱い人、友の居ない人、に仕えられました。

彼らと共に時間を過ごし、言葉を交わし、そして彼らを皆癒されたのです。救い主は行かれる先々で、福音の「良い知らせ」を教えられました。

人々を、霊的にも、この世的にも、自由にする永遠の真理を伝えられました。

ソロモンは 間違っていました。人生は「空」ではありません。反対に目的を持ち、異議深く、平安に満ちた人生を送ることができます。

信じ、愛し、行う

聖文はこう教えています。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は神のいますことを必ず信じる筈だからである。」

ある人にとって信じることは、困難です。時々、自分達のプライドが妨げとなるのです。

自分には、知性、教養、経験があるのだから、簡単に神を信じられない と考えるかも知れません。そして宗教を愚かな言い伝えと、捕えるようになります。

私の経験から言えば、信じることというのは、鑑賞して称賛し、それについて語り合って、理論化する絵画のようなものではありません。

それは畑に持ち込み、額に汗して地にうねりを作り、種をまいていつまでも残る実を結ぶ様にする、農具のスキのような物です。

神に近ずくなら、神は自分に近ずいてきてくださいます。

聖文が明らかにしているように、わたし達は神と神の子供達を愛すれば、愛するほど幸せになります。

しかし、イエスの言われた愛は、ギフトカードのような使い捨ての、すぐ他のことに心が移るような愛ではありません。

「わたしが出来ることがあれば教えてください」という様な愛ではありません。

神が語っておられる愛は、朝 目が覚めた時に心に入って来て、一日中心にとどまり、一日の終りに声に出して、感謝の祈りをささげるときに、胸がいっぱいになるような愛です。

これは言葉では言い表せない愛です。この限りない思いやりがあってこそ、わたし達は他の人々がどの様な人であるか、もっとはっきりと見ることができるのです。

繰り返しの練習がひつよう

何かが上手になるためには、繰り返しの練習が必要であることを私達は知っています。クラリネットの演奏、ボールをネットに蹴り入れること、自動車の修理、飛行機の操縦、はどれも練習する事でますます上達します。

私達には独自の才能、能力、または個性があります。これらの個性や才能を、主から与えられた方法で生活し、主が行われた方法で、他の人に祝福をもたらす練習する場所が、イエス・キリスト教会だと思います。

 

人生は、時折困難かも知れません。確かにすべての人に失望と落胆の時期があります。

しかし、イエス・キリストの福音は希望をもたらします。そしてわたし達はイエス・キリストの教会で、家庭のように心休まる場所、ともに信じ、愛し、行うことが出来る成長の場を求めることができます。







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ようこそ 私は管理人の齋藤正子です。

新潟県出身  高校卒業まで新潟で過ごす。

「末日聖徒イエス・キリスト教会」会員。

教育者の家庭に生まれ育ち、7歳で母親を亡くし、後信仰深い祖母に育てられたが、10歳の時父が再婚し、その義母に姉妹差別で育てられた事に悩んだ。 大学を卒業した後、様々な人々と関わり 「人生とは何か」に、疑問を持っていたある日「末日聖徒イエス・キリスト教会」の宣教師に出会い、「救いの計画」について聞く事ができた。

そして人生の目的や人々との関わり等について、また人と神の関係について学んだ。

私と同じ疑問を持っている方、又人々との関係を良いものにしたいと思う時に、参考になればと思い聖典等を参考にして書いています