人生の目的を知り人間関係を学ぶ

人生の目的を知り、その目的に至るまでの生活や人々との関わり方について、学ぶ事が出来る。

信仰と愛

愛は最も大切なものですが、非常に難しい問題は人を裁く事です

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人を裁くこと

(トーマス・S・モンソンの話参照)

まずは、私が話したい事をうまく表現している短い話しをしてみたいと思います。

リサとジョンという若い夫婦が新しい土地に引っ越して来ました。ある日の朝、朝食をとりながらリサが窓越しに外を見ると、隣の家の人が洗濯物を干していました。

「あの洗濯物 汚れが落ちていないわ」とリサが大声で言いました。「隣の人は洗濯の仕方を知らないのね」

ジョンも外を見ましたが、ジョンは何も言いませんでした。

隣の人が洗濯物を干すたびに、リサは同じことをいいました。

数週間後 リサは窓から外を見て驚きました。隣の庭にスッキリと きれいな洗濯物が干してあったからです。

リサは夫に言いました。「ジョン見て、隣の人もやっと洗濯物の仕方が分ったみたいよ、でもどうして分ったのかしら?」

ジョンは答えました。「実は答えは知っているんだ、驚くかも知れないけど今朝早起きして、僕がうちの窓ガラスを拭いたんだよ」

 

掃除をしていない窓を通して 人を見てはいないでしょうか、全ての事実を知っている訳でもないのに、人を裁いてはいませんか、人を見る時どこを見ていますか? そしてどんな判断を下しているでしょうか。

救い主イエス・キリストは「人を裁くな」と言われました。

そして続けてこう言っておられます。「なぜ兄弟の目にある塵を見ながら、自分の目にある梁を認めないのか」(マタイ7:3)

言い換えると「なぜ隣の家の洗濯物が汚いと言いながら、自分の家の窓が汚れている事を認めないのか」と、なります。

完全な人はいません。それなのにどういう訳か、人はとかく自分の不完全さを棚に上げて、他人の欠点を指摘したがります。

他人のしている事や、していない事を裁いてしまうのです。

本人の心や動機、状況など、知るすべもないのに 人の言葉や行いを批判します。「さばくな」いう戒めがあるのは、その為です。

私達は人をその行いや、言葉で裁く傾向があります。しかし大抵の場合、外見で判断してしまいます。 服装や髪型、体型など、数え上げればきりがありません。

うわべで人をさばかない

見かけというものは当てにならず、人を評価する尺度としては、あまり役に立ちません。救い主は「うわべで人を裁かないように」と勧告しておられます。

ある女性団体の会員が、団体の代表に選ばれた女性について抗議しました。本人に会ったことはないけれど、写真からすると肥りすぎていて不適任だと言うのです。

彼女はこのように発言しました。「この組織には何千人も女性がいるのですから、もっと良い代表を選ぶことが出来た筈です。」

確かに選ばれた女性はモデルのような体型ではありませんでした。しかし、彼女を直接知りその人となりを知っている人は、写真からは到底分らないことを見ていました。

写真からは人懐こい笑顔と、自信に満ちた表情が見てとれましたが、写真から見て取れなかったことは、彼女が忠実で思いやりのある友人であり、主と主の子供達を愛して奉仕する女性だということでした。

地域社会でボランテアとして働いており、親切で世話好きな女性である事は、写真からは読み取れませんでした。つまり、写真は彼女の真の姿を映し出していなかったのです。

 

あなた、という人は一人しかいません。皆さんは互いに多くの点で違っています。その相違点をあげればきりがありあせん。

違っていることが原因で互いを裁きたくなるのでしょうか。

生涯の大半をインドの貧民街で暮らした カトリックの修道女「マザー・テレサ」は、深遠な真理を語っています。

「人を裁いていたら愛する時間がなくなってしまいます」

救い主はこのようにお教えになりました。『わたしの戒めはこれである、わたしがあなた方を愛したように、あなた方も愛し合いなさい』

互いを裁いていながら、互いに愛し合うことができますか、答えはマザー・テレサと同じです。「いいえ できません」

慈愛とは何か

愛、すなわち「慈愛」とは何でしょうか、預言者モロナイは、「慈愛はキリストの純粋な愛」である。と教えています。

慈愛、すなわち「キリストの純粋な愛」は批判することや、裁くことの対極にあると私は考えます。

私が考えている慈愛とは、病気の時や、悩み苦しむときだけじゃなく、相手の欠点があらわになったときにも、間違いを犯したときにも、相手の立場になって考え、同情し、慈しみを示すことです。

忘れ去られている人に目をかけ、落胆している人に希望を与え、苦しんでいる人を助ける慈愛が大いに必要とされています。

真の慈愛は行動する愛です。慈愛は至る所で必要とされています。

慈愛とは、自分を打ちのめす者に忍耐することです。些細なことに腹を立てないように気持ちを抑えることです。

人の欠点や失敗を受け入れることです。人をありのままに受け入れることです。

外見の奥にある、時が過ぎても衰えることのない特質に目を向けることです。

レッテルを貼ろうとする衝動を抑えることです。

いくつもの小さな方法で、皆さんの誰もが慈愛を示す事ができるのです。

 

完璧な人生を送っている人などいません。互いに裁かず批判せず、この人生を一緒に旅する人達に、キリストの純粋な愛を示してください。

慈愛は、「最も気高く、尊く、しかも強い愛」と定義されています。

慈愛は、キリストの純粋な愛であって、終りの日にこの慈愛を持っていると認められる人は幸いです。

「愛はいつまでも絶えることがない」(1コリント13:4-8)のです。

 

 







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ようこそ 私は管理人の齋藤正子です。

新潟県出身  高校卒業まで新潟で過ごす。

「末日聖徒イエス・キリスト教会」会員。

教育者の家庭に生まれ育ち、7歳で母親を亡くし、後信仰深い祖母に育てられたが、10歳の時父が再婚し、その義母に姉妹差別で育てられた事に悩んだ。 大学を卒業した後、様々な人々と関わり 「人生とは何か」に、疑問を持っていたある日「末日聖徒イエス・キリスト教会」の宣教師に出会い、「救いの計画」について聞く事ができた。

そして人生の目的や人々との関わり等について、また人と神の関係について学んだ。

私と同じ疑問を持っている方、又人々との関係を良いものにしたいと思う時に、参考になればと思い聖典等を参考にして書いています