リン・G・ロビンズの話し参照
善を行う人とはどの様な人物か
イエス・キリストは弟子達にこの様にいわれました。
「あなた方はどの様な人物であるべきか、まことにあなたがたに言う、わたしのようでなければならない」
キリストの様になるには、私達もキリストが行ったことを行わなければなりません。
「まことに、まことにあなたがたに言う、あなたがたは、わたしがするのを見たその行いを、あなたがたもしなさい」
性質と行いは切り離すことができません。例えば、信仰があれば祈りますし、祈れば信仰が強くなります。
キリストは、しばしば善意なく善を行う人を「偽善者」と非難なさいました。「この民は口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と
善意なく善を行うのは偽善であり、本性を隠す人はうそつきです。
逆に善良な人であっても、善を行わなければ空しいものです。
「信仰もそれと同様に、行いを伴わなければそれだけでは死んだもの」なのです。善行を伴わないような善良さ というものはありません。
善良だと自負していても、善い事をしようと思うだけで、行わない人は自分を欺いています。
善意なく善を行うという偽善は、人に嘘をつくことです。一方善意がありながら善を行わない場合は、自分に嘘をつく事になります。
キリストは、律法学者やパリサイ人を、偽善者だと厳しく非難されました。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよあなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの什分の一を宮に納めておりながら、律法の中で最も重要な公平と、あわれみと、忠実さを見逃している。」
言い換えれば、彼らはなるべき人物になっていませんでした。
良い性質を持つ
キリストは、善を行うことの大切さを認めながらも、良い性質を持つことを「もっと重要な事」としています。
良い性質を持つことの大切さとは、なすべきことのリストを作って、達成したことを忘れない様にする人は多いのですが、身に付けるべき性質のリストを、持っている人はめったにいません。どうしてでしょうか、
「なすべきこと」とは、その活動や行事が終わればチェックを入れることが出来ます。しかし性質のリストは、これで終り、ということがありません。終わった、というチェックが入らないのです。
土曜日の夜、妻を外に連れ出して楽しませる事が出来ます。これは善い行いです。しかし、一度何かをすれば良い夫になれるという訳ではありません。性質、人格、人となりを変える必要があります。
また、親として良い親になる努力に終りはありません。そして、良い親として、子供に教えることのできる最も大切な一つは、キリストのようになる方法です。
キリストのような特質を見る事が出来ませんが、目に見えない行いに表れます。たとえば、親は歩き方を教えるのに、子供を支えたり褒めたりしますが、これは目に見える行いです。この様な行いは、目に見えない愛と、子供の可能性に対する信仰と期待の表れです。
行動を生みだすのは私達の性質であり、それは行動の動機なのですから何をするべきか、教えるよりも好ましい性質を身に着けるように教える方が、行動を改善する上で効果があがるでしょう。
行動は目に見えない動機の表れ
子供が悪い事をした場合、たとえば、喧嘩をした場合にはその行動、つまり、目に見える喧嘩をやめさせるようとすることが多いのですが、これは間違っています。
行動は目に見えない動機の表れにすぎません。次のように考えると良いでしょう。
「この子はどんな特質を理解したら、このようなことをしなくなるだろうか、腹が立った時、がまんし、赦すという特質だろうか、思いやりがあって、和を大切にするという特質だろうか、それとも、自分の行動に責任を持ち、人のせいにしないという特質だろうか」
親は、この様な特質をどうやって子供に教えたらよいのでしょうか。
キリストの様な特質を教え、示す機会として訓練に勝るものはありません。
訓練は、訓練する側に忍耐と教える努力が必要です。
怒りながら訓練すべきではありません。「説得により、寛容により、温厚と柔和により、また偽りのない愛により、優しさと、純粋な知識」によって訓練することができますし、そうすべきです。
これらはすべて、キリストのような特質であり、親として私達が身につけなければならないものです。
訓練によって結果を学ぶ
子供は訓練によって結果を学びます。マイナスをプラスに変えるチャンスです。
子供が悪い行いを告白したら、告白した勇気を褒めてください。間違いや悪い行いから何を学んだか、尋ねてください。
これは親が子供の心に触れ、子供を教える機会となります。そしてもっと大切なのは、御霊が子供の心に触れ、子供を教えるということです。
『罪を憎んで人を憎まず』という言葉は誰でも聞いたことがあります。これを同じく子供が悪い事をした場合に、(だから自分は悪い子なのだ)と子供に思いこませるようなことを言わないように、気をつけなければなりません。
「ばか」「のろま」「怠け者」「まぬけ」などと言って失敗を一つの行為ではなく、本人の本質であるかのように、感じさせてはならないのです。
子供は神の子です。それが彼らの本来の姿であり、可能性です。神の計画は御自身の子供達が、間違いや悪い行いを克服して成長し、神のようになることです。
ですから、失望させるような行動は一時的なものと見なすべきです。直らないものでも、その人の本質でもありません。
ですから私達は、子供をいさめる祭に注意することは、
「あなたはいつも・・・・」とか「あなたは絶対・・・・」などの決めつけるような言葉を、使わないように気をつける必要があります。
「あなたは私の気持ちなんか絶対考えてくれない」とか、「あなたはどうしていつも待たせるの」などの言葉を用いないように気を付けてください。
このような言葉は、相手の行為を人間性の表れであると、決めつけるものであり、子供の自己認識や自尊心に悪影響を及ぼしかねません。
ほめかた
自分がどういう人物であるか、ということへの混乱は、私達が子供に「大きくなったら何になりたいか」と尋ねるときに、生じることがあります。
「生計を立てるためにどんな仕事をするか」が、「その人はどんな人物であるか」と、あたかも等しいかのように尋ねるからです。
職業や所有物は、その人の特質や価値を決めるものではありません。
子供が、自分は何者であるかを見出し、自尊心を高めるのを助けるうえで、わたしたちは子供が成し遂げたことや、行動、つまり行いを褒めることができます。
しかしもっと賢明なのは、まずその子供の人格と信念、つまり ひととなりを褒めることです。
子供に、何か家の手伝いをするように頼むときには、「喜んで手伝ってくれるので助かるわ」など、その子供の性質を褒める方法も探すようにしましょう。
スポーツの試合で子供のプレー(行動)を褒める場合、賢明なのは、やる気や粘り強さ、打たれ強さ、などの特質を挙げて、内面と行いの両方を褒めるようにすることです。
子供が学校から成績表をもってきたら、良い成績を褒めることが出来ますが、しかし「宿題を全部提出したのね、難しいことに取り組んでそれを成し遂げられるのね、あなたを誇りに思うわ」などと、その努力を褒める方が、子供の心には良い気持ちがいつまでも残ります。
どのような人物になるべきか、を教えるうえで、最も大切な方法は、私達にとっての天の御父のような親になることです。