(ジェームズ・E・タルメージの話し参照)
聖典の中では、イエス・キリストが使徒や人々に教えを話される時、よく喩え話でなさる時がありますが、それは聞く人がよく理解出来る様にです。また、それでも分らない人には分らせる必要が無い、ということもあるという。
これから自分の経験から得た教訓を、二つ紹介したいと思います。
愚かな蜂の喩え話し
時に、自分のゆったりした時間を一人静かに部屋の中で、窓を開けて心地よい風や、太陽の光を部屋に通しているような時、風に吹き飛ばされた花ビラや 羽で飛ぶ虫も部屋の中に入って来る事があります。
あるとき、近くの丘から一匹の蜂が部屋に迷いこんで来ました。私は1時間以上も その蜂の飛び回る愉快な音を聞いていました。そのうちこの小さな蜂は、自分が閉じ込められたことに気づき、半開きの窓を見つけようとしましたが、結局脱出できずにいました。
部屋の戸締りをする時間になった為に、私は窓を大きく開けて蜂を誘導して何とか外に出してあげようとしました。そのまま放置すれば乾いた空気の中で、間違いなく死んでしまうからです。
しかし、追い出そうとすればするほど この蜂はますます抵抗しようとしました。静かな蜂の羽音は次第に大きくなり、その素早い動きは攻撃的になり、敵意を示しはじめました。
そして私は、ちょっと油断したスキに蜂に手を刺されてしまいました。蜂を自由にしようとしていた手を刺されたのです。
そして蜂は私の手の届かない天井の飾りに泊まり、どうすることも出来なくなりました。私は切れるような手の痛みに、怒りよりもむしろ憐れみを覚えました。
誤った抵抗が、どの様な報いをもたらすか知っていたからです。でも私は蜂をそのままにするしか ありませんでした。
2~3日後に乾ききった蜂の死骸がその部屋にありました。頑固な態度を死によって償わければならなかったのです。
浅はかな身勝手な誤解をしていたこの蜂にとって、私は敵であり、執拗な迫害者でした。命をつけ狙う人間だと考えていたかも知れません。
しかし実際は私は友であり、自らの過ちを招いた罰から生命を開放しようとしていたのです。死の獄舎から救い出し、自由の外気に連れ戻そうとしていたのです。
聖なる教え
私達は蜂よりもずっと賢いのでしょうか、私達の生活はこの愚かな蜂の生涯とは全く違うと言えるのでしょうか、私達は艱難や苦しみには、信仰の薄い人が完全に、理解することが出来ない「聖なる教え」が含まれていると思っています。
多くの人が富を失う事で、祝福を得てきました。また、利己的な放縦のとりこから解放され、日の当る自由の地へと導かれることで、益されてきたのです。
そこでは努力することで、無限の機会が与えられるのです。落胆や悲しみ、そして苦しみは、全能なる神が示される愛の表現でもあるのです。
愚かな蜂の教訓について考えてみましょう。
「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識に頼ってはならない、全ての道で主を認めよ、そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:5-6)
二つのランプの喩え
思い出の品々の中に一つのランプがあります。このランプは学生時代に愛用していた読書用ランプで、同種類のランプの中では、最上級のものでした。
私は苦労して稼いだお金でこのランプを購入しました。このランプは私が最も大切にしていた秘蔵品の一つでした。
ある夏の夕方 私は自分が下宿し、勉強に使っていた部屋の外の広間に座り、真剣に また静かに瞑想をしていました。
そんな折、一人の見知らぬ人が近ずいて来ました。よく見ると肩からカバンを下げていました。彼は気さくで愉快な男性でした。私は部屋の中から椅子を一脚持ってきて私達はともに雑談をしました。
辺りは次第に薄暗くなり、そして夜になりました。その男性はこう言いました。「あなたは学生だから、きっと、夜にやらなくてはならない宿題が山ほどあるのでしょう、どんなランプを使っているのですか?」
答えを待つまでもなく彼は話し続けました。
「あなたに見せたい素晴らしいランプがあるのです。最近の応用科学の発展によって、設計制作されたランプで、人工的な照明の手段としては、これまでに作られたどんなランプも比較にならない程優れた代物です。」
そこで私は自信たっぷりに答えました。むしろ少し勝ち誇っていました「ランプなら持っていますよ、これまで使ってきて、すばらしい事は実証済みのランプです。沢山の長い夜をともに過ごして来た友人のようなランプですよ。」
「アルガンランプで、最上級の一つです。今日芯の手入れをして、きれいにしたばかりですから、明りを灯す準備は出来ていますよ。どうぞ中に入ってください。私のランプをお見せしましょう。」「あなたのランプの方が恐らく優れていると言われるかもしれませんが」
二人は私の勉強部屋に入りました。そして私は手入れの行き届いたアルガンランプに明かりをつけました。
上には上がある
その訪問者は褒め言葉を並べたてました。この種のランプでは最高の物だと言ってくれました。また、これほど手入れの行き届いたランプは見た事はない、とも言ってくれました。
彼は明りを強くしたり、弱くしたりして、調節の具合も完全だと言ってくれました。また、これほどまでに申し分のない働きが読書用ランプにできるとは思いもよらなかった。と断言したのです。
私は、この男性が気にいりました。私の目には賢い人に映りました。人に好感を与える人物である事は確かでした。
「さて」と、この男は言いました。「もしよろしければ、私のランプも点けさせてください。」
彼はカバンの中から、当時「ロチェスター」という名で知られていたランプを取り出しました。そのランプのホヤは、私のランプに比べると、民家の小さな煙突と、工場の煙突ほどの違いがありました。
その芯の幅は、私の指が4本入ってしまう程でした。その明りは、私の部屋の一番隅まで明るく照らしてくれました。
「そのランプを私に売ってください」と私はいいました。
説明や議論の必要はありません。私はその夜新しく手に入れたランプの性能を、確かめようと研究室に持っていきました。ランプを点けると、48燭以上の明るさでした。私のランプのまさに4倍の明るさだったのです。
ランプを購入してから二日後、私は昼食時に町で あのランプの行商人に会いました。ランプの売れ行きについて尋ねると、よく売れてランプの需要に工場の供給が追いつかない、という答えが返ってきました。
「でも、今日は働かないのですか?」と私は尋ねました。その行商人の答えから私は教訓を学びました。
「真昼間から町を練り歩いて、ランプを売るような事をすると思いますか、日中にランプをつけていたとしたら、あのランプ買っていましたか?私は自分のランプがあなたのよりも、優れている事を知って貰う為に、あの時間を選んだのです。」
「だからこそあなたは、私の差し出した より優れたランプを自分の物にしたくなったのでしょう。ちがいますか?」
話しは以上です。
さて、この話の一部分ですが、応用の仕方を考えてみましょう。
ランプを売ろうとした男性は、私のランプをけなしませんでした。
私のランプの薄暗い炎の横に自分のランプの、より明るい光を置いたのです。その結果私は即座に良い方を選んだのです。
「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして人々があなたがたの善い行いを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)
この喩えのより深い意味については、見る目があり、理解する心のある者には、理解出来るということです。