神の御声を聞く
(デビット・P・ホーマー の話し参照)
何年も前のことですが、私は免許を取ったばかりの新人のパイロットの操縦する小型飛行機に乗りました。
そうして空の旅も終りに近ずき着陸の許可も下りました。しかし飛行機が地面上に近ずいた時、コックピットから「上昇せよ」という警告音が聞こえてきました。
そこで操縦士は、その時自分より経験豊かな副操縦士の顔をみました。彼は滑走路から離れた下の方を指さし「今だ!」と操縦士に言いました。
そこで私達の乗った飛行機は、左と下に向かって急旋回すると、再度適当な高度を取り直すところまで上昇しました。そして改めて着陸体制に入り直すと、目標地点に無事着陸したのです。
後から知ったことですが、そのときコクピットから「上昇せよ」と聞いた時、別の飛行機に離陸の許可が出たばかりだった、ということでした。
もし、着陸の指示に従っていたとしたら、離陸寸前の飛行機を回避するどころか飛行機に接近していたことでしょう。
この経験から私は、二つの重要な教訓を得ました。一つは、人生における重大な瞬間には、私達の関心を引こうと、相反する複数の声が聞えるということ、もう一つは正しい方の声に聞き従わなければならない、ということです。
相反する声
私達は 日常生活の中で私達の関心を得ようとする、たくさんの声に囲まれて生活しています。
ニュース速報や、ツイッタ―、ブログ、ポッドキャスト、そしてアレクサやシリのような、音声アシスタントの指示の声などが、次々と押し寄せる中で、信用できる声を識別することは困難です
時に私達はコンピューターの中に、人生の導きを求めます。大多数の指示していることに、真理の源があると考えるのです。
また「二つのものの間に迷い」「冷たくもなく熱くもない」状態を選ぶこともありますし、都合の良い方に従ったり、導きを求めてたった一つの声や、論点にしか耳を傾けなかったり、自分自身の意思能力だけに頼ることもあります。
こうした手段が問題解決の役に立つ場合もあるでしょうが、経験から言えることは、それが常に確実なわけではない、ということです。
多くの人が支持するから最善だというわけではありません。二つの意見の間で迷っていては何も進みません。
都合の良さは最も大切な事にはつながらないですし、一つの声や論点に固執することで、視野が損なわれることがあります。
自分自身の思考力だけに頼ると、知的観念が強すぎて思いが鈍くなってしまい、注意していないと間違った声に誘われ、常識の中心から外れてしまい、正しさを維持できなくなります。
そうすると、むなしさ、辛さ、不満といったものしか、感じられなくなってしまいます。どういうことかというと、
喩えと聖典の例を使って、それがどういう意味なのか説明してみます。
正しい声
登山家達は通常8000メートル以上の高地を「死のゾーン」と呼んでいます。その高度では生命を維持できる酸素が十分には無いからです。
同じ様に、霊的な「死のゾーン」があります。私達が信仰とは縁遠い場所に長く居すぎると、一見善い導きであるかのような声が聞こえて、私たちが必要とする霊的な酸素を奪っていきます。
神様は、私達にさらに良いものを得てほしいと、望んでおられるので、私達が神様の声を聞けるようにしてくださいます。
なかでも、聖霊から与えられる心の思いを通じて、御声を聞くのが最も一般的です。聖霊とは、神とイエス・キリストについて証をし、私達にすべての事を教えるために遣わされており、「わたし達がなすべき事をすべて、私達に示されます」
たとえば、誰もが経験していると思いますが、心に強く感じたり、ひらめきがあったりすると思いますが、それです。
御声を見出す
私達は多くの場所で、神の御声を見出すことができます。
その為には神に祈り、聖典を研究したり、教会に出席したり、信仰に関する話合いに参加している時などに、御声を見出せるでしょう。
そういうわけで、私達はあらゆる声の中から、自分がどの声に従うのか決める必要があります。なぜなら、世間で受け入れられるか否かに問わず、神が私達に伝えたいことを告げ知らせてくださるからです。
そして、御声を聞いたら、与えられる指示に従う必要があります。