選択の自由とはどういうことか
(ロバート・D・ヘイルズの話し参照)
私達は度々「選択の自由」という事をいいます。しかし、その意味が理解できない人が多くいます。なぜでしょうか?
選択の自由とは、普通の定義では、選択の幅とか、選択肢とか、選択の余地とか、選択できるものとか、選択の道とか、使用可能なもの等と、辞書ではいろいろな意味が出ておりますが、
イエス・キリストの 福音で言う「選択の自由」とは、
「神から授けられた選ぶ能力と特権」であり、人は「思いのままに行動することが出来、強いられることはない」と教えています。
つまり「選択の自由」とは、自分の行動に責任を持ってものごとを行う事です。そしてこれは「神の救いの計画」に不可欠なものです。その事の意味を説明すると、
人は、選択の事由 によって、「すべての人の偉大な仲保者(イエス・キリスト)を通じて、自由と永遠の命を選ぶ事も、あるいは、悪魔の束縛と力に応じて、束縛と死を選ぶことも自由」だという事です。
もう少し詳しく紹介しますと、
地上に生まれる前
わたしたちはこの地上に生まれる前は、天の御父(神)と一緒に居て御父は、御自身の「救いの計画」を私達に示されました。それはすなわち、地上に生れて肉体を受け、地上で善と悪を選んで生活し、行いによって、御父の様になって再び天に戻り、御父と共に永遠に住むという計画です。
そのためには「選択の自由」つまり、自分で選び行動する能力は、この計画になくてはならない要素でした。
「選択の自由」がなければ、正しい選択をして進歩する事はできません。しかし、選択の自由を使って その選択を誤り、罪を犯して、天の御父のみもとに戻る機会を失ってしまうこともあり得ます。
この人々の為に、罪を悔い改める人の罪を負い、贖ってくださる救い主が備えられることになりました。その救い主は無限の贖罪によって、正義の要求を満たされるのです。
この救い主を神が決められる時に、ルシフェルが進み出て言いました。「わたしをお遣わしください、わたしは全人類を贖って、一人も失われないようにしましょう。ですから私にあなたの誉れを与えてください。」といいました。御父はそれを聞いて、彼を退けられました。なぜなら、ルシフェルの言ったことは、神の「選択の自由」を否定するものだったからです。それは、神に対する反抗の計画だったのです。
そして御父は、御子のイエス・キリストを選びました。キリストは御自分の選択の自由を使って言われました。「父よ、あなたのみ心が行われ、栄光はとこしえに あなたのものでありますように。」こうして、イエス・キリストがわたしたちの救い主、世の救い主となられたのです。
こうして天の御父の子供達はそれぞれ、天の御父から授かった「選択の自由」を行使する機会を得ました。そして私達は、救い主イエス・キリストを信じる道を選びました。
主のみもとに来て主に従い、天の御父がわたしたちのために示された計画を受け入れることにしたのです。
しかし、天の御父の子供の3分の1は、救い主に従う信仰がなく、ルシフェルすなわちサタンに従うことを選びました。
地上にうまれて来たこと
こうしてわたしたちは、前世で救い主イエス・キリストに従うことを選びました。そのため地上に来る事を許されました。
そして、この地上にいる今も同じ様に、救い主に従う事を選ぶなら、さらに大いなる祝福を永遠に受ける事ができます。
しかし、忘れてはならない事は、救い主に従う事を引き続き選ばなければならないのです。これは永遠にかかわる問題であり、選択の自由を賢明に使うことは、永遠の命を得るために不可欠なことだからです。
また救い主は、生涯を通じて、選択の自由をどの様に使うべきかを、示されました。その事は聖典に書いてあります。
救い主の教え
主は地上に生まれ、すべてのことについて、わたしたちと同じ様に試練に会われ、すべての選びと行いにおいて、選択の自由を行使して救い主となり、人のために罪と死の鎖を断ち切ってくださいました。
また、完全な生活を送る事によって、天の御父の御心を行うならば、選択の自由が守られ、機会が広がり成長できることを教えてくださいました。
この真理は、聖文の至る所で見られます。
わたしたちは、キリストのみもとに来て、キリストに従うことを選ぶかぎり永遠の命への道を歩むのです。
選択をまちがった場合
私は、若き時代に自分の選択の結果、自分の自由が奪われるという、大切な教訓を得ました。
ある日、板張りの床にニスを塗る様に 父から言いつけられました。 間もなく仕事が終わろうという時、部屋から出られなくなっている事に気づきました。 奥には窓もドアもありませんでした。部屋の隅に追い込まれ、行き場がありません。身動きがとれなくなったのです。
不従順になると必ず霊的な片隅に追い込まれ、自分の選択に縛られます。霊的に生き詰まっても戻る方法は常にあります。
悔い改めと同じで、方向転換して塗ったばかりの床の上を、元の方へ戻るのは努力を要します。ニスを塗り直すのは大仕事だからです。
間違いをして、主のみもとに戻るのは簡単ではありませんが、努力する価値があります。
世の中には「選択の自由」について、偽りの教えがたくさんあります。 多くの人はこう言います。
「飲み食いし、楽しみなさい たとえ私達に罪があるとしても、神は私達をほんの少し打たれるだけで、結局私達は神の王国に救われる」など。
世俗主義を信奉し、神を否定する人もいて、「すべての物ごとには反対のものがある」と考えず、「人がする事はどんな事でも決して罪にならない」と信じています。
これは、「神の知恵とその永遠の目的を滅ぼす」ものです。
世の中の教えとは逆に、聖文の教えによれば、人には選択の自由が与えられていて、それを義にかなって行使すれば、様々な機会が広がり、選択の自由に基ずいて行動し、永遠に進歩する能力が増し加えられるのです。