神は私達を御存じです
ケイス・J・ウイルソン ブリガム・ヤング大学古代聖典学順教授 の話
意気消沈した時にナインのやもめを思い起こす
イエスはやもめが正に助けを必要としている時に、助けにこられました。
そして、わたしたちのもとにも同じ様に来てくださいます。特に忘れられた、あるいは見過ごされたと感じる時には、このことを思い出してください。
新約聖書のある女性のことを考える
人生の浮き沈みの中で、わたしたちは、自分の日常生活の中で、神があまり心にかけてくださらない、と感じることがあるかも知れません。
日々の生活はつまらなくて単調に思えます。大した変化もありませんし、自分の状況のどこに神が直接介入してこられたかを、指摘するのは難しいこともあります。
そんな風に自分が取るに足りない人生を、送っていると感じたときに、私はよく、同じ様に感じていたかも知れない、新約聖書のある女性のことを考えます。
この女性は聖典に名前は出ておらず、住んでいた村と、やもめという逆境のみで知られています。
その女性はナインに住んでいるやもめで、福音書の著者の中で、ルカだけが、この彼女の驚くべき話しを記録しています。
私にとってこのやもめの話は、救い主の個人的な務めと、救い主が当時の社会の、意気消沈していた庶民に手をさしのべられた様を、凝縮しています。
この話しは、神が私達のことを御存じで、私達を心にかけておられるかどうかという問題に、見事に決着をつけています。
イエスの計画
ルカ7章に描かれているこの奇跡を、おおまかに言うと、イエスが、死者を葬りに行く行列に出会って、亡くなった若者を生き返らせたという話しです。
しかし、この状況には、理解しておくべきことがまだ沢山あります。そのすべての奇跡について言えることですが、特にこの奇跡について言えることは、背景事情を理解することが不可欠だということです。
私はブリガムヤング大学エルサレムセンターで教えていましたが、この奇跡について、個人的な見解を皆さんに伝えたいと思います。
イエスの時代に、ナインの町は、エズレルの谷の東側であることを示す、モレの丘を背にして広がる小さな農村でした。村そのものは人里離れた所にあり、そこに通じる道は一本しかありませんでした。
イエスの時代に、それは小さな比較的貧しい集落であり、その点はその後も変わっていません。歴史的に見るとこの村は、わずか34世帯、人口189人という時代もありました。
現在ここには1500人ほどが住んでいます。
ルカは前日に、イエスがカペナウムにいて百卒長の僕を癒された話を、最初に書いています。そして「翌日」にイエスが大勢の弟子達とともにナインの町に入った事がわかります。
この順番はとても重要です。
カペナウムは、ガリラヤの海の北岸にあり、海抜マイナス183メートルです。そして「ナイン」はカペナウムの南西48キロメートル程の所にあり、海抜213メートルですから、ナインに行くには、かなり急な坂道を登って行かなければなりません。
カペナウムからナインまで徒歩で行くには、少なくとも1~2日はかかったと思われます。
最近ブリガム・ヤング大学エルサレムセンターの若者たちが、この同じ行程で舗装された道を歩いたところ、10時間かかりました。ということは、
イエスが翌日の葬列に出会うためには、イエスは非常に朝早く起きるか、または、夜通し歩かなければならなかった事になります。
イエスが過酷な旅の後に町に近づかれると、20代と思われる若者が、死者を載せる板に載せられて運ばれている所でした。
この若者は、やもめの一人息子であったとルカは述べており、このやもめにはほかに子供がなかった、と解釈しています。この家族の一大悲劇に、大勢の村人が付き添っていました。
息子が亡くなるのはだれにとっても悲劇であることは明らかですが、このやもめの状況が何を意味するのか、考えてみてください。
古代のイスラエルでやもめに跡継ぎがいなくなることは、社会的、精神的、経済的に、いったいどんな事を意味していたでしょうか。
旧約聖書の文化では、夫が老年に達する前に亡くなると、それは罪のために下った神の裁きのしるしだと信じられていました。
そのため、残されたこのやもめには罰が下ったのだと考える人もいたのです。
精神的、情緒的な苦しみだけでなく、このナインのやもめは経済的な破綻にも瀕していました。飢え死にすらしかねない状況だったのです。
女性は結婚すると、夫の家族となって経済的に守られました。夫が亡くなると、女性を養う義務は生得権を持つ息子に受け継がれました。
このやもめは、生得権を持つ跡継ぎの息子が死んだのですから、経済的な支えを得る望みがなくなりました。息子が20代だとすると、このやもめは、中年の女性だと思われます。
人里離れた小さな農村に住んで居て、精神的、社会的、経済的に行き詰ってしまいました。
村人達がこの女性の息子を運んでいるほんの短い間に、イエスはその葬列に出会って、彼女に「深い同情」を寄せられました。
イエスは何らかの方法でこのやもめの、全く絶望的な状況を察知しておられました。
恐らく彼女は、なぜこうなったのか教えて欲しいと、土間にひれ伏して夜通し天の御父に乞い願っていたことでしょう。または、自分が陥ることになる孤独に、恐怖を覚えていたかも知れません。それは私達にはわかりません。
しかし、分るのは、救い主が直ちにカペナウムを発つことにされたということであり、埋葬する前に葬列に出会う為に夜通し歩かなければならなかったかもしれない、ということです。
死者を蘇らせる奇跡
そうです。葬列の後について歩くこのやもめの泣き腫らした顔を見て、イエスが深く同情されたのですが、この同情は、埋葬に向かうその行列に「たまたま」出会うずっと前に持っておられた感情だったようです。主が彼女にとって必要な瞬間に、計画的にそこに来られた、ということは明らかです。
そしてイエスは、やもめにこう言われました。「泣かないでいなさい」
主は、不浄だとされることなど恐れずに「棺に手をかけられると」葬列が止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と命じられました。「すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった」
大勢の村人とイエスに従う者達は、それまで共有していた悲しみが純粋な喜びに変わった。
しかしこれは、一人の打ちひしがれた人を救う、という奇跡でもあったのです。
イエスは、この女性が窮地に陥っていること、その文化の中でさげすまれる状況にある事を御存じでした。主は彼女が絶望的な状況にある事を御存じですぐ来られたのです。
さて、この出来事は確かに励みになりますが、これを、聖書に出て来るすばらしい話でおわらせてはなりません。
この話しは、この貧しいやもめ、人から忘れ去られ、窮地に陥ったやもめを主が御存じであったことを、紛れもなく照明しているのです。
イエスは、やもめが心底必要としている時に来られました。そして私達のもとにも同じ様に来てくださいます。
神は私達を心にかけ見守っておられます。しかし、神は普通、誰か他の人を通してわたしたちの必要を満たされます。
主がわたしたちを、お忘れになることは、決してありません。