贖いとはどういうことか
一言で「贖い」とはどういうことかと言うと、「罪などの肩代わりをすること、またその代わりとなるもの」ということですが、特にキリスト教の教義の一つです。それは、自らでは贖うことの出来ない人間の罪を、神の子であり、人となったキリストが、十字架の死によって贖い、「神と人」との和解を果たしたことの、「赦しと和解」です。
ではその意味をもう少し分り易く、喩え話しで説明しましょう。
バージニアの山あいに、教室が一つしかない学校がありました。その学校の男の子達は、とても乱暴で、その子たちを制することが出来る先生はいませんでした。
ある日一人の若い経験の浅い先生が赴任してきました。
教師は皆、乱暴な男の子達にひどい仕打ちをうけている、と言われましたが、その若い先生は覚悟をきめました。
その先生は最初の登校日に、男子生徒に、自分達の規則と規則を破ったときの罰を作るように、言いました。そこでクラスの生徒は、10の規則を挙げ、それらが黒板に書き並べられました。
そしてその先生は言いました。「規則を破った人にはどうしますか?」すると彼らから、「上着を脱がせて背中を10回鞭でたたく」という答えが返ってきました。「わかったそうしよう」と決めました。
それから2,3日たった頃、トムという体の大きな生徒の弁当が盗まれました。
盗んだ生徒が分りました。10歳位の体の小さな お腹をすかせたジムという生徒でした。
小さなジムは、罰を受けるために出て来ると、上着を脱がなくて済むように嘆願しました。「上着を脱ぎなさい」先生がいいました。「君も規則を作る手伝いをしたんだから」
そしてその男の子は上着をぬぎました。彼は下着を着ていず、体は痩せて少し障害がありました。
先生が棒を持って躊躇していると、体の大きなトムが素早く立ちあがり、自分が代わりに罰を受けると申しでました。
「いいだろう、ほかの者が身代わりになれる法律もある。皆は賛成かい?」と先生が聞いた。
トムの脊中を5回打ったところで、棒が折れてしまいました。クラスのみんながすすり泣く声が聞えました。小さなジムが来て、両手をトムの首に回して抱きました。
『トム、ごめんね、君の弁当を盗んだりして、僕、とてもお腹がすいてたんだ。トム、僕は死ぬ迄ずっと君のことが好きだよ、僕の代わりに鞭を受けてくれた君のことが、そうさ、永遠に君が好きだ』と泣きじゃくった。
この様に罪などの代わりをすることが贖いですが、歴史上で最も偉大な出来事は、私達の救い主であるイエス・キリストのたぐい稀な贖いの業です。
これは過去に行われた中で、最卓越した業であると同時に、最も理解が困難な事柄です。
イエスの贖い
イエスは私達のために幾多の痛み「言葉に表せないほどの苦痛」「強烈な責め苦」を受けられました。ゲッセマネの園で激しい苦しみを受けられ、全人類の全ての罪をその身に負われ、苦痛の為におののき、あらゆる毛穴から血をながし、体と霊の両方に苦しみを受けれたのです。
イエスが行われたことは、神のみがお出来になることでした。肉体における神の独り子として、イエスは神聖な属性を受け継がれました。
イエスはこの世に生を受けた人の中で、この最も重要で神聖な業を成し得る唯一の御方でした。この地上に生きた唯一の罪のない人として、イエスは、わたし達が自分で出来ない事を私達の為に行ってくださいました。
イエスが全人類の罪を贖う為に、十字架につけられて殺された、その事を理解する為に、この「サイト」のカテゴリー(神の存在)で「私達はどこから来たのか、又死んだらどこへ行くのかを正しく知ることは必要です」の記事をを読んでください。