クリスマスの主役、イエス・キリストとは、神様か人間かその真実を知る
12月はクリスマスの季節です。そして誰もが「イエス・キリストの降誕祭」をして楽しみます。また、これを知らない人はいないでしょう。
しかし、イエス・キリストとはどんなお方なのか、実在した人か、何をした人なのかを知らないで、ただやたらクリスマスにプレゼントの交換をして楽しんでいる人達も、大変多いのではないかと思います。
それで、イエス・キリストという方について、その真実を知って理解して頂きたいと思いますので、少しイエス・キリストの生い立ちについて述べてみたいと思います。
イエス・キリストの象徴
イエス・キリストは、聖典の中で様々に象徴されています。たとえば、「贖い主」「アルパとオメガ」「生ける水」「命のパン」「岩」「インマヌエル」「エホバ」「解放者」「神の子羊」「救い主」「長子」「初子」「慰め主」「花婿」「光」「羊飼い」「人の子」「弁護者」「道」等々その他いろいろあります。
このイエス・キリストは、霊における御父(神様)の長子であり、肉のおける御父の独り子なのです。もう少し分り易く言うと、この世に生まれた全ての人間は、生まれる前は霊であって、御父(神様)の子供でした。その中で、イエスは長子(一番目の子)でした。又、イエスはこの世に肉体を持って生れてきた人の中では、御父(神)の独り子なのです。
また、イエス・キリストはこの地上で生まれ、生活されたのは、33年間でした。けれど万人の認める「偉大な教師」として公の伝道活動を行われたのは、その内のわずか3年間でした。
個人としてのイエスを親しく知っていた者は、ごく僅かしかなく 世界的人物としての名声が一般に知れ渡ったのも、死後のことであった。
イエスのこの世の生涯を、最も早く最も広い範囲に渡って記されているのは、「新約聖書」と呼ばれる聖典です。
また、イエスほど世界中の文献が、その大きな部分をさいている人は、歴史上かつていません。 クリスチャンは勿論のこと、回教徒、ユダヤ人、さては懐疑論者や、無神論者に至るまで、また世界最大の詩人、哲学者、政治家、科学者、歴史家に至るまで、イエスをほめたたえています。
神を敬わない罪人でさえ、汚らわしい誓いの言葉の中で、イエスの神性を認めた表現をしています。
イエスがこの世に生まれる前のことについて
西暦紀元の始めかその年の近くに、ユダヤのベツレヘムで「キリスト」と呼ばれる「人間イエス」が、お生まれになったことは歴史上の事実です。
その「ベツレヘムの聖なるみどり児」がこの世に生を受けたことについて学ぶ前に、知っておいてもらいたいことは、
創世(世界の出来た初め)の以前に、神と霊の英知達と神の霊の子供達によって、天上に於いて大会議が行われました。このとき「神の御子」は、「これからこの世に生れてくる人類」の為の「救い主」として、又、まだ出来ていない地球の「贖い主」として、聖任されたのです。
そしてイエスは、御父の指示の下に「神の無数の霊の子供達が、現世の試しの生涯として住まわれる」地球を用意しました。(地球を創りました)
つまり、御父と共に人間の住む地球と、地上の万物を創造されたのです。このことは旧約聖書の「創世記」に記載されております。
キリストは、イエスとして人々に知られ、イエスの神性を信じる者は皆「キリスト・イエス」と呼んでいるが、このイエスが肉体を受けて、この世に来られる前に、神である御父と共に居たもうた事を、聖書の権威に基ずいて断言するものです。
また、イエスが選ばれて 人類の唯一の「救い主」「贖い主」に聖任された事も疑いのない事実です。 それについて少し説明を付け加えると
人類の歴史が始まる前に、霊界で起こった事件の一部を、示現の中で見たヨハネの話しで聖書にはこう記されています。
「どれ程昔のことか分らないが、人がこの地球上に置かれる前に、キリストとサタンは大勢の神の霊の子供達と共に、英知ある個人として存在していた。そして将来どの様な道を進むのか、また霊の子らはどの様な指導者に従って行くかを、選ぶ能力と機会を受けていた。」
天において霊の英知達が集まったその大会議では、神の霊の子供達が将来神の様に成長する為に、地球に生まれ肉体を得て善悪を学び、選択の自由を使って善を選び成長して神のもとに帰って来るように御父の「救いの計画」が提出されました。
将来の地球上で肉体を受けるということは、特別な栄誉であった。霊達のての届く範囲にこのように置かれた機会は、この上ない素晴らしい機会であった。
天の大群衆は歌声をはりあげ、皆喜び呼ばわった。そしてその子らの指導者に、神の長子であるイエスが、自ら肉体を受けて模範を示す教師として、人類の間に生活し、人類固有の神聖な自由意思を尊重しながら、人が生来の神聖な能力を正しく用いるように、教えるという計画が採用された。
イエスの誕生について
神々と、御使い達が集いたもうあの尊い会議の時、のちにマリヤの息子として、肉体を受けたもうイエスは、そこで重要な役割を演じ、席上御父から人類の救い主として聖任されました。
すなわち神の長子であるイエスが、謙遜に申し出た計画は、イエスが自ら肉体を受けて模範を示す教師として、人類の間に生活し、人類固有の神聖な自由意思を尊重しながら、人が生来の神聖な能力を正しく用いるように、教えるという計画が採用されました。
『新約聖書』の使徒ヨハネによる福音書第1章の初めの部分に、こう書いてあります。
「はじめに言(ことば)があった。言は神と共に合った。言は神であった。この言は初めに神とともにあった。すべてのものはこれによってできた。出来たもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真に満ちていた。」 とある。
私達は、この「はじめに」という言葉の意味は、『旧約聖書』の創世記第1章1節の「はじめに」という言葉の意味と同じであると、考えることができよう。そして、この意味は、人がこの地球上に置かれた最初の時期よりも、前の時期を示しているに違いない。
はじめにあった「言」はイエス・キリストであった。その「言」すなわちイエス・キリストは、初めに御父と共にあった。またその「言」は神の能力と神の位とを、具えたまい、この世に来て人々の間に住みたもうた。と、はっきり断言されています。
贖い主の必要性
全人類が創世の以前に霊として存在していたこと、また死すべき体を持つ人間としての、経験を得るためにこの地球が創造されたことは、明らかです。
人は霊の状態で既に自由意思の能力、もしくは自由に選ぶ能力を授かっており、肉体をもった自由の民、すなわち死すべき体を持った人間として、自由に選びかつ行うという、譲り渡すことの出来ない生得権を、継ぐ者になるということが、神の計画によって用意されていた。
永遠の御父は、神の霊の子供達がいろいろな性質と、いろいろな能力を持っていることを、よくご存じであった。また、神の子供達の中には人生という学校で、成功する者もあれば、失敗する者もあり、誠実な者もあれば不正直な者もあり、善を選ぶ者もあれば、悪を選ぶ者もあり、生命の道を求めて進む者もあれば、滅びの道を選ぶ者もいることを最初からはっきり知っておられました。
また御父は、死がこの世へ入ってきて、神の子供達が肉体をまとっている期間は、各々異なり、まことにつかの間である事も先見しておいでになった。
さらに神の子供達が、神の戒めを守らず律法をやぶること、その結果神の御前から締め出されて放置されている限り、人は進歩せず天から消えさることを知っておられた。
それであるから、間違いを犯した人間が償いをし、定められた律法に従うことによって救われ、ついに永遠の世界で昇栄できることを知っておられた。そこで、贖いの手段を用意する必要があった。
人は必ず死ぬが、その後再び生き各々の霊が不死不滅となった体に、宿って死の力は征服されると定められたのです。
そこでもしも罪を犯した者達が進んで利用するならば、その恐ろしい結果を避けることの出来る手段を、無限の愛と慈悲によって定めたもうた神の長子である御方が、自ら人間の中で導きと恵みを施すことによって、救いの福音を確立し、苦役と屈辱と死に至る苦痛を受けて、自らを犠牲にする。という申し出が採用され、人を死から贖う計画、最後には罪の結果から救う計画、また義しい業によって、昇栄できる計画が予め定められました。
死は、人類が生まれながらに受け継いだものとして、この世に入ってきました。 それは、最初の人類のアダムとイブが、サタンの誘惑によるものであった。その死に打ち勝ち、サタンの力から贖い出す手段として、キリストによる贖いが定められた。
「アダムにあって、全ての人が死んでいるのと同じ様に、キリストにあって、全ての人が生かされる」のです。
キリストによる贖いは、愛の心を持ってなさる身代わりの犠牲であって、この様な使命を遂行する資格のある者は、罪の全くない者だけであった。
イエス・キリストは、その要求に応えることの出来る唯一の御方であった。すなわち、イエス・キリストは
1、全く罪のない唯一の人。
2、御父の生みたもう独り子として、従って神性と人間性とを完全に兼ね具えて地上に生まれた唯一の御方。
3、天において選ばれ、この務めのために予め聖任されていた御方として、この大きな犠牲の要求に応える事の出来る、唯一の御方であった。
そしてイエスは、全人類の罪を贖う為に殺されなければならなかったのです。
クリスマスは、このイエス・キリストを思い起こして愛を示す日です。