ダリン・H・オークスの話しから
末日聖徒の奉仕のありかた
私達は「末日聖徒イエス・キリスト教会」の会員として、当たり前に多くの奉仕をしておりますが、救い主(イエス・キリスト)は、自分を捨てて人に仕えるのに必要な犠牲を払うことで、救い主に従うようにと教えておられます。
救い主は無私の奉仕に御自身のすべてをささげられました。そして、私達一人一人が自分の利益を捨てて、人々に仕えることで主に従う様にと教えられました。 末日聖徒は、この教えに従い、無私の奉仕を実践しているという点で人々の注意を引く存在です。
毎年、何万という末日生徒が専任宣教師として、伝道に出る為に申請書を提出しています。年配の人達は定年後の 楽しみ、自宅での快適な生活、子供や孫との愛にあふれる交わりを、一時的に諦め、不慣れな地域で見知らぬ人々に奉仕する為に出かけていきます。
若い男性と女性は、仕事や学校の勉強を中断して、割り当てられた場所なら どこにでも行って奉仕します。
同じくステーク、ワード、そして支部で働く大勢の役員や教師も、無私の奉仕を行っています。皆、この世的な意味では無報酬ですが、キリストの様に同胞に(同国民)に仕える決意をしています。
家族への責任
末日生徒に限った事ではありませんが、自分を捨てて人のために奉仕する身近な例として、親が子供の為に払う犠牲があげられます。
苦しんで子供を産み、一人一人を育てながら、母親は自分で優先したい事や、快適な生活を犠牲にします。父親は、自分の生活と優先順位を変え、家族を養います。
今日の社会ではこの様な犠牲を、進んで払う人と払わない人との差が、大きくなっています。
最近 家族の一人が飛行機の中で、旅行中の若い夫婦の会話を小耳に挟みました。 子供達を持つ代わりに、犬を飼うようにした、という内容でした。
その夫婦はハッキリこう言ったそうです。「犬の方が手間がかからないからね、口答えもしなければ、外出禁止のお仕置きをする必要もない。」と
数多くの末日聖徒の夫婦が、無私の人々であることは喜ばしいことです。
天の御父が、送り、託して下さる子供達を産み育ってながら、個人として優先したいことを進んで諦め、主に仕える人々です。
また、体の不自由な家族や、年老いた両親の世話をする人々が、いる事を嬉しくおもいます。「自分の得になるだろうか」と考えながら、この様な奉仕をする人はいません。
こうした奉仕はすべて、無私の心で個人の都合を犠牲にすることが、求められます。
現代に於いて非常に多くの人々が負い求める、この世的な名声、財産、即座に得られる満足とは、逆のものなのです。
自分のことを忘れて人のために働く
犠牲を払うことに対する末日聖徒の決意は、他ではあまり見ることができません。
末日聖徒は、一つとなって協力することに、長けているという点でも有名です。末日聖徒の預言者はこのように言っております。
「自分のことだけを考えて生きる人は、衰え、死んでいきますが、自分のことを忘れて人々の為に働く人は、現世においても永遠の世界に於いても、成長し、栄えるでしょう。」
教会員は信仰を持ち、奉仕を行うことによって、より大きな単位である地域社会のために、協力して働く方法を学んでいます。だからこそ、末日聖徒のボランテアは、教育、地方行政、慈善運動において歓迎されているのです。
彼らは協力し合い、無私の心で時間や手段を使いながら、高い技術の求められる数多くの活動でも必要とされています。
外部の人達がこの教会の組織をまねても、この教会に記録されていること、あるいは、教会員の行っている事の再現にはならないでしょう、
教会員が進んで犠牲を払い、協力しあう能力を備えているのは、主イエス・キリストを信じ、指導者の霊感に満ちた指導を受け、自らの理解に基ずいて決意し、聖約をかわすからなのです。
当然の権利という考えかた
私達は、犠牲がまさしく時代遅れとなっている時代に住んでいます。
現代を「わたし」時代と呼んだ人がいます。だれもが、「自分の得になるだろうか」と考えているような、利己的な時代です。
今の時代、世の中が求めているのは、何もしないで見返りを得ることです。貧欲という昔からの悪は、権利を主張する時に顔をのぞかせます。
私は、息子なので、娘なので、市民なので、犠牲者なので、あるグループの会員なので、この権利がある、あの権利がある。 と言うのです。
当然の権利、という考え方は概して利己的です。多くを求めながら、与えることはほとんど、あるいは全くありません。
この考え方にとらわれると、自分を他の人よりも上に置くことを、願うようになります。
この世の価値観
この価値観は、「自分さえよければいい」と教えますが、それは間違っています。この堕落した姿勢は、何の変化も成長も もたらしません。
カルカッタの 故マザー・テレサは、無私の奉仕の偉大な模範です。 彼女と同僚達は、確固たる誓いを立て「貧しい人の中でも最も貧しい人々の為に、全身全霊を傾けた無料の奉仕」に献身しました。
彼女はこう教えています。「いつも私たちに天国を約束してくれるものがあります。それは人生を満たす慈愛と、思いやりの行為です。」
そしてこう語りました。「大きなことはできません、小さなことのみを大きな愛で行うのです。」
このすばらしい カトリックの僕が亡くなったとき、末日聖徒の大管長は、哀悼のメッセージを送り、次の様に宣言しました。
「無私の奉仕で彩られた彼女の生涯は、全世界を感動させています。」キリストの慈しみを、実践した彼女の行いは幾世代にも渡って、人々の記憶に残るでしょう。」
これこそまさに、救い主が言われた 自分を捨てて人の為に奉仕する。と言うことなのです。