人生の目的を知り人間関係を学ぶ

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人との関わり

高慢な人とはどんな人か、高慢はあらゆる人に対して罪で悪です

投稿日:2020年2月24日 更新日:

末日聖徒イエス・キリスト教会のエズラ・タフト・ベンソン大管長は、高慢と謙遜の違いについて教えました。

神は高慢に気を付けるよう警告された

高慢な人は、神を思うことはなく何が正しいか、顧みることはしません。

自分の隣にいる人たちを見て、互いに誰が正しいか言い合っているのです。

高慢な人の特徴は「わたしはこの人生で何をしたいのだろう」と考え「神は私にこの生涯において、何をするように望んでおられるのだろうか?」とは考えないのです。 そして、謙遜な人は、神の御心にこたえようとします。

高慢な人の望みが、世の称賛を得る事であるのに対し、謙遜な人は神の称賛に喜びを得ます。

高慢はひどく誤った解釈をされている罪であり、多くの人々が無意識のうちにこの罪を犯しています。 義にかなった高慢というような事は決してありません。

ほとんどの人は高慢を「自己中心」「うぬぼれ」「自慢」「尊大」「傲慢」のことだと思っています。確かにこれらは、それぞれ高慢の罪の要素でありますが、核となるものが抜けています。

高慢の中心を成すのは「敵意」です。敵意は「憎悪、敵対心、反抗」などを意味します。 つまり神と仲間に対する敵意です。

高慢の本質の基本は競争心です。自分の思いを神の考えと競わせるのです。そこには「神の考えより自分の思い」という気持ちがあります。そうすると欲望や欲求、激情と制御することが出来なくなります。

神に対して自分の考えに同意するよう求めます。神の考えに合わせて自分の考えを変えるなど念頭にありません。

高慢という罪にはもう一つ重大な要素があります。それは仲間に対する敵意です。

私たちは人よりも上に立ち、ほかの人をおとしめようとする誘惑に、毎日直面しています。

高慢な人は自分の 知性、意見、仕事、財産、才能など、この世的な尺度をもって張り合い、すべての人を敵に回します。

高慢な人は何かを所有するだけでは、喜ばない。人より多く持って初めて喜ぶのです。

人を高慢するのは比較です。自分は他より優れているという優越感です。競争心という要素が無くなれば高慢もなくなります。

聖文には、この高慢の罪が個々の人間、あるいは、民、町、国家に悲惨な結果を及ぼした実例が数多く記録されています。

高慢な人は神の裁きよりも人の裁きを恐れる

キリストを十字架につけたのも、この高慢でした。イエスがご自分を神の子と主張した言葉に激怒したパリサイ人は、イエスのその言葉は、自分たちの地位を危うくする大きな脅威でした。それで彼らはイエスを殺害した。

高慢な人は、神の裁きよりも人の裁きを恐れます。彼らは「神にどう思われるかりも、「人にどう思われるか」が」重要なのです。

人から賛同を得ようと競うことは、人の裁きを恐れていることの現れです。高慢な人は、「神のほまれよりも、人のほまれを好み」ます。

イエスは 『わたしは いつも神のみこころにかなうことをしている』と言われました。

私たちは、自分だけを高めて人に勝りたい、という動機ではなく、神のみこころにかなうことをしたい、という動機で行動すべきでしょう。

高慢な人の中には、自分の収入が生活の必要を満たしているか、どうかよりも、他の人より多いかどうか、ということに気をとられている人がいます。そのような人にとって報酬は人より上に立つこと、これが高慢のもつ競争心です。

高慢な思いは多くの形であらわれる

他人が犯す高慢の罪はすぐ目につきますが、自分自身にその罪があると認めることは、ほとんどしません。

高慢な罪とは、金持ちや学者のように社会のトップにある人が、ほかの人を見下すことだと多くの人は考えます。しかし、それ以上に私達の間に広がっている慢性的な病があります。それは下から上を見上げる高慢です。

これは、あら探し、うわさ話、中傷、不平、収入以上の生活をすること、そねみ、羨み、また人を高める感謝の念や、称賛の言葉の欠如、人の過ちを赦さない嫉妬、など様々な形で現れます。

高慢な人は、自分の上に誰かがいるという事実に、我慢がならないのです。それによって自分の立場が低くされると考えるのです。

利己心は、高慢がさらに一般的な形をとって現れたものです。「自分にどんな影響があるのか」が、とにかく大切なのです。

うぬぼれ、自己憐憫、この世的な願望の実現、自己満足、身勝手などがあります。

高慢はまた、争いという形でも現れます。論争、喧嘩、不義な支配、世代の断絶、離婚、伴侶への虐待、暴動、争乱、これらは全て高慢の範ちゅうに入ります。

高慢な人は勧告や、矯正を容易に受け入れません。

高慢な人は、自分に価値があるかどうかの、判断を世の声に頼ります。彼らの自尊心は、この世が判断する成功の度合いで決まるのです。

また、業績や才能、美しさ、知性などにおいて、自分より劣る人が多いほどその分、自分の価値が高いと感じます。高慢とは醜いものです。

高慢という言葉のもつ真の意味は、破滅をもたらす罪です。人の成長を制限したり、止めたりします。

高慢な人は、なかなか教えを聞こうとしません。心を入れ替えて真理を受け入れようとしません。なぜなら、そうすることは自分が間違っていたという意味になるからです。

高慢はあらゆる人間関係に、悪影響を及ぼします。神とその僕、夫と妻、親と子、雇用者と従業員、教師と生徒、そしてすべての人間関係にその影響は及びます。

高慢は、自分が神の子供であり、すべての人と兄弟姉妹であるという意識を消していきます。

高慢によって過去に私たちが知ったもの、また、現在の私達自身や家族、地域社会が、何を失おうとしているかを考えてください。

謙遜こそが高慢の治療薬

高慢は、様々なときに様々な強さで、すべての人に影響を与えます。

高慢は、あらゆる人に共通の罪であり、甚だしい悪です。そうです間違いなく高慢はあらゆる人が犯す罪であり、甚だしい悪なのです。

 

高慢の治療薬は謙遜です。柔和と従順です。神は謙遜な民を求めておられます。

私たちは、自ら選択して謙遜になることも、やむを得ずへりくだる事も出来ます。 やむを得ずへりくだるのではなく、自らへりくだる事を選びましょう。

勧告と懲らしめを受け入れる人は、謙遜になる道を選択できます。

自分を傷つけた人を赦すことにより、謙遜になることを選択できます。

無私の奉仕を行うことによって、謙遜になることを選択できます。

神を愛し、自分の思いを神の御心に服従させ、神を第一にした生活を築き上げることによって謙遜になることを選択できます。

謙遜になることを選びましょう。私達には、それができます。

私たちは、高慢な心を克服して器の内側を清めなければなりません。

 

 







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新潟県出身  高校卒業まで新潟で過ごす。

「末日聖徒イエス・キリスト教会」会員。

教育者の家庭に生まれ育ち、7歳で母親を亡くし、後信仰深い祖母に育てられたが、10歳の時父が再婚し、その義母に姉妹差別で育てられた事に悩んだ。 大学を卒業した後、様々な人々と関わり 「人生とは何か」に、疑問を持っていたある日「末日聖徒イエス・キリスト教会」の宣教師に出会い、「救いの計画」について聞く事ができた。

そして人生の目的や人々との関わり等について、また人と神の関係について学んだ。

私と同じ疑問を持っている方、又人々との関係を良いものにしたいと思う時に、参考になればと思い聖典等を参考にして書いています