(アラン・A・ベシオンの話参照)
救い主イエス・キリストがこの世に生まれ、地上で過ごされたのは30数年間でした。そして最後に十字架上で全人類の罪を贖うために犠牲となり、神の御心に従いました。その愛する贖い主が地上で過ごされた、最後の数か月について理解を深め、また神の御子が、この世において語られた最後の言葉を理解するために、順を追ってまとめました。その概要に従ってこの記事を展開していきます。
苦痛の序章
贖い主が最後に語られた一連の大切な言葉を理解するには、十字架上の死が苦難に満ちた数々の深遠な出来事の、最後に起きたことを心に留める必要があります。
最初は過ぎ越しの食事でした(いわゆる最後の晩餐です)。次に主が経験されたのは、ゲッセマネにおける精神と肉体と霊の苦痛でした(ゲッセマネという庭園で神に祈りをささげました)。それから捕らえられて、不当な裁判にかけられました。
ピラト(ローマ総督)とヘロデが尋問しました。主は、尖らせた骨と鉛をおもりに付けた革の鞭で打たれました。兵士達はあざけりの言葉を浴びせながら、戦闘用の紫の衣を主に着せ、いばらの冠をかぶせ、縛った両手に笏として葦の棒を握らせました。
次に主は、クレネ人シモンの助けを借りて、ゴルゴタまで十字架を背負わせられました。そして朝の9時に兵士達はイエスを十字架にかけました。
十字架にかけられた二人の強盗に挟まれて、イエスは忌まわしい十字架にしっかり括り付けられました。
兵士たちは、主から脱がせた上着を奪い合いました。この不自然な体勢を強いられた神の御子は、息をするたびに襲ってくる苦痛にうめきながら、律法学者、祭司長、長老、兵士、通りがかりの人、僅かな友人、と親戚の前であざけりを受け、さらし者にされたのです。そのような時でさえ、主の最後の言葉には、神の御子としての特質がにじみ出ていました。
十字架上でイエスが語られた七つの言葉
父よ彼らをお許しください、彼らは何をしているのか分からずにいるのです(ルカ23:34)
この言葉の中の「彼ら」が、救い主を十字架にかけた兵士達を指しています。
イエスを鞭打ち、あざけり、十字架に釘で打ち付けた兵士達は、命令に従ってそうしたのです。ピラトの命令を実行するか、さもなければ罰せられる、この選択肢しかありませんでした。
兵士達はイエスの教えを聞いたことがなかったと思われます。彼らにとってイエスは、異国の扱いにくい民の一人にすぎませんでした。
救い主は、兵士たちの行動が罪とならないように、御父に懇願されました。救い主の死の責任は、当然のことながら、その血の責任は「われわれと我々の子供の上にかかってもよい」と言った人々に降りかかりました。
自分が何をしているのか分からない人々に対して、私たちは彼らの動機にこだわることなく、関心を示さなければなりません。
あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう(ルカ23:43)
十字架にかけられた強盗の一人は、自分がさまよい出た後に勝手な道に向って行った羊の存在だと語りました。心の奥底にあった光が「すべての人を照らす真の光」を前にして、再び掻き立てられたのです。
彼は、あざけりの声に加わらず、救われるかも知れないという、かすかな望みを託して良い羊飼いに訴えました。「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、私を思い出してください」 救い主は優しく答えると、希望をお与えになりました。
この罪人は、霊界で福音が延べ伝えられることや、霊界において神に従って生活する機会が与えられることを、恐らく理解していなかったと思われます。
救い主は、まことに御自分の横ではりつけにされていた強盗に、関心を寄せられました。ましてや主を愛し、主の戒めを守るよう努力している人々には、より深い関心を示されるに違いないのです。
婦人よ、ごらんなさい、これがあなたの子です(ヨハネ19:26)
救い主の母マリヤは、十字架の傍らに立っていました。神の御子である自分の息子の肩に無限の重荷が置かれるのを、目の当たりにしたとき、シメオンの預言を思い出したことでしょう。「ごらんなさい、この幼子はイスラエルの多くの人を倒れさせたり、立ち上がらせたりするために・・・定められています。そして、あなた自身も、つるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。」
マリヤも心を刺し貫かれる痛みの中で、救い主が父なる神の御心を成し遂げておられると感じたことでしょう。なぜなら、マリヤこそ天使に「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」と答えたその人だったからです。
ごらんなさい、これはあなたの母です(ヨハネ19:27)
この地上を去ろうとしていおられた瞬間に、救い主の関心と慰めの言葉は、母マリヤに向けられた。マリヤの夫ヨセフはすでにこの世を去っています。愛弟子ヨハネがマリヤの世話をすることになりました。
神の長子である主がお与えになったこれらの言葉には、家族の責任について、不滅の教訓が含まれています。すなわち、神の御心を尊ぶ伝統を代々受け継ぎ、両親を敬い、互いの必要に心を配りなさいという教えです。
以上の言葉は午前9時~12時の間に、十字架上から語られたものでした。そして「万物の神」が苦しみ耐えておられた昼の12時から、3時間にわたって暗黒が全地を覆いました。「それは十字架の刑に従って生じる、恐れべき苦悶に加えて、ゲッセマネの園における苦悶が、人間の力に耐えられぬほどの強さになって、また迫ってきたもののようであった。
わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか(マルコ15:34)
ゲッセマネでは、一人の天使が現れて救い主を力づけました。しかし今や、救い主は独りで酒舟をお踏みにならなければなりません。何の答えもありませんでした。天使はやってきませんでした。主はお独りでした。
御父はその光景に、隠れ場を覆う大幕を引かれたのでしょうか、まさに息を引き取ろうとされたときに、その唇から、このような言葉が漏れたのは、きっと激しい感情の動きを経験しておられたからでしょう。
ゴルゴタで、人々を前にして受けられた激しい靴は、一人ゲッセマネで受けられた苦悶に、勝るとも劣らないものでした。このためイエスは、御父に対してその後もこのように、語り続けられることになったのです。
「父よ罪を犯したことがなく、あなたの子が流した血、すなわちあなた御自身が栄光を受けるために、あなたがお与えになった者の血をご覧ください。」
イエスがお独りで苦しみを受けられたことは、父なる神が子らに対して、無限の愛を抱き、子らを尊重しておられるために、時々沈黙されることを思い起こさせてくれます。
人がつたない努力によって、わずかながらも勝利を得るように、また「私たちが最善を尽くした後」に、神がその絶大な恵みによって救ってくださることを、示すために神はそうされるのです。
わたしはかわく(ヨハネ19:28)
この言葉から、イエスが十字架上で受けられた肉体の苦痛のすさまじさを、伺い知ることが出来ます。
イエスの肉体は、苦しみからの解放を求めていました。乾ききった唇に舌が張りつき、はっきりと言葉も出せないほどでした。
肉体の苦しみにおいて、私達には「これらすべての下に身を落とした」神がおられます。
ぶどう酒を浸した海綿がイエスの口に近ずけられました。イエスはそれを受けると、肉体にあって最後の言葉を発せられた。
すべてが終わった(ヨハネ19:30)
完璧な贖いが成し遂げられたのでした。世の罪のための苦しみが終わりました。永遠という時の流れの中で、これほど輝かしい瞬間がほかにあったでしょうか、
預言者ジョセフ・スミスが霊感によって、加えた記録によれば、御子は「すべたがおわった」と口にされる前に、御父に呼びかけられました。それから御父の御心は成し遂げられたと、宣言なさいました。
ゲッセマネにおける最初の言葉から、十字架上の最後の言葉に至るまで、その言葉にはイエスが御父の御心を、行われたことが表されています。イエスは、御父から与えられた苦い杯を飲み、御父に栄光を帰し、全人類に救いをもたらされました。
父よわたしの霊を御手にゆだねます(ルカ23:46)
全能者の御子は、御自分の命を進んで差し出されました。イエスは母マリヤから死すべき体を受け継ぎ、肉体の父である神から死すべき体にあるまま、永遠に生きる力を受け継いでおられました。
救い主は、全人類に復活をもたらすため、御自分の命をお与えになりました。救い主の贖いの犠牲は、すべての人が悔い改めて永遠の命を得る手段を、与えています。
主の死に至る出来事に驚嘆し、十字架上で語られた主の言葉が持つ、教えの深い意味と全容について、思いめぐらすとき『まことにこの人は神の子である』と、感嘆の声を上げることができます。