和田貴志の回想録から参照
自分の前に二つの道があった時のこと
私は長野県で両親のもとで育ちました。
私の家族が行うことには、すべて宗教が関係していました。父は毎日朝晩仏壇の前に座っていました。仏教は私達家族の生活様式だったのです。
一生仏教徒でいれば楽だったかも知れませんが、楽な道や皆が行く道が必ずしも一番良い道だとは限らないと、知ったのは、私が神様の存在を知ることが出来てからです。
教材なのか神聖な本なのか
私が中学生の頃、私は自分がどういう存在なのか分からず、随分悩みました。自分はなぜこの地上にいるのか、どんな人間になるべきなのか等を考えていたのです。
ある日学校の校長先生が、皆に一冊の本を配りました。「宗教的な目的で配るのではありませんが、非常に良い訳なので、これを使って英語を勉強してください。」と新約聖書の英語と日本語訳のものでした。
開いてみると、イエス・キリストの教えるさまざまな言葉(聖句)がありました。孤独感を感じた時や、疑問の答えが欲しいとき、悩んでいるとき等に、どの聖句を読めばいいか分かるようになっていました。
そこで私は、イエス・キリストについて知りたいと思いました。
「すべて重荷を負うて苦労をしている者は、わたしのもとに来なさい」(マタイ11:29) 「自分の十字架を負うてわたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)
等の聖句を読んで、すべてを理解したわけではないものの、それらの言葉が心に響きました。
イエス・キリストとはどんな御方なのか、その方を「救い主」というのは、どういうことなのだろうか、と考えました。また教材とされているこの本に、こんなに興味を感じてしまうのは、自分だけなのだろうか、とも考えました。
逃げるか話を聞くか
数年後、私は初めて宣教師に出会いました。両親からは「若いキリスト教徒が教えを説いて回っているから気をつけるように」と言われていたのです。
ある日私が歩いて家に帰る途中、優しい笑顔の背の高い二人のアメリカ人に呼び止められました。どうしたらよいか分かりませんでした。教会の話をされたら困るなと思いました。その時は反対の方向に逃げていく事を考えました。
でも、そのアメリカ人が私に聞いてきたのは、郵便局がどこにあるのかを聞かれただけだったのです。それを教えて私は家に帰りました。その帰る道すがら私は、こんな気持ちになっていました。「今後宣教師をもう一度見かけたら、自分から話しかけてみよう」と、会えることを望みました。
するとその後まもなく別の宣教師に出会ったのです。そこで私は宣教師に声をかけました。その時宣教師は「ジョセフ・スミス」という少年の話をしてくれました。
ジョセフ・スミスは、自分の本当に知りたいことを、一心に神様に祈った時、神様が現れてそれに答えてくれた。という話です。
私のような少年の祈りを、神様が聞いて答えてくださるのか、と驚きました。でも、そのジョセフ・スミスについて書かれた物を読んで、その少年はもっと驚くべき経験をしたことを知りました。
そして宣教師は、「神様は本当にいらっしゃるので、私にも常に祈るように」と、勧めてくれました。私も、新約聖書を読んでいましたが、神様が人に御姿を現されることなんてあるのでしょうか、それは極端な話だと思いましたが、ありえる、とも思いました。
そこで私は、次は私の方から約束を作って、宣教師から教えを受ける事にしたのです。
言い訳をするか真理を見出すか
宣教師から教えを受けるようになって、一か月ほどすると私はバプテスマ(洗礼)を勧められました。断りたいとは思いませんでしたが、両親や周囲の皆が大切にしている伝統を捨てることには、ためらいがありました。
この時、私の前には、「二つの道」がありました。そしてどちらにするべきか、を知る方法は一つです。それは祈ることです。真心から神様に祈った時、その自分の考えが正しければ、どちらの道を行くべきかを、知ることができます。
その後も私は、続けて福音の話を学びました。そして、この回復された福音が真実だと自分で分かるようになりました。その時二つの道のどちらに行くべきか、私にはわかっていました。
私が学んで知り得たことは、私達は神の子であって、神から愛されており、神が私たちのために計画を用意し、私達の祈りに答えたいと思っておられることが分かったのです。これを知って私の人生はすっかり変わりました。
この時、知りたいと思っていた自分の存在が分かり、自分の行うことが重大な意味を持つことを、知ったのです。
周囲に合わせるか、わが道を行くか
自分が神の子であることを知る前、私は皆の意見に合わせたいと思っていました。その方が楽だからです。でも今は他と違ってもいいと思えるようになりました。
自分の気持ちを、両親に説明する勇気が出てきました。でも両親には、あまりよく理解してもらえませんでした。私が反抗的でバプテスマを受ける決断を、下すにはあまりにも未熟だと両親は考えたのです。
息子が家族の伝統を守るのではなく、この奇妙な宗教の教えに従うことを、恥ずべき事だと思っていました。私は自分の知った真実を、両親にも分かってもらいたいと、思いました。
両親を敬うか両親の心配を無視するか
私はこの状況を、宣教師に話しました。すると宣教師は「両親に会って、この宗教に好感を持ってもらえるようにしましょう」というのですが、私は「申し訳ないが、両親は宣教師と話したがらないと思う」と言ったら宣教師は「じゃあ断食をして祈りましょう」と言いました。
私はそれを実行して、朝食を食べないでると、母が心配しました。「なぜ食べないの?」と聞くので、断食をしているから、と言うと、母は益々心配して「あなたは、そうして得たいの知れない宗教に、入ろうとして今度はご飯を食べないのね、私は心配でショックだわ」と言い「その宣教師に電話しますからね」と言って、母は宣教師に電話しました。
ところが、どういう訳か宣教師が、我が家の夕食に招かれたのです。
とても和やかな夕食でした。宣教師たちは両親に讃美歌を教えて、皆で歌いました。父はその歌が気に入りました。
この宣教師たちとの夕食以来、父も母も私が教会に行くことに、不安を感じることがなくなりました。
しかも私は、福音に従った生活をすることによって、両親を敬うことが出来ると感じたのです。福音は、両親が教えてくれた事をすべて網羅していたからです。
両親をずっと愛して、大切にしたら、最終的には理解してもらえるようになると思います。
私がバプテスマを受けてから35年が経ちましたが、そして、母は数年前にバプテスマを受けました。
自分が神の子だという知識は、私の人生を左右する多くの決断に影響を与えてきました。また、たとえ難しそうに見えても、天の御父が自分に望んでおられる事なら、それを行う事によって、御父は、私達を祝福してくださいます。
だから、どんな時でも祈って御霊に従うことが、一番良い選択肢なのです。