試練について、聖典から考えてみたいと思います。
私達は生きている間に、たえず様々な試練に遭遇します。それは、神様が人々が成長するために、与えられるものだからです。また、現在世の中に「新型コロナウイルスが蔓延している」のも、世界の人々に与えられた試練です。
なぜ、こんな試練を与えておられるのか、考えてみる必要があります。そしてそれに打ち勝つために、どうするかをかんがえなくてはなりません。
新約聖書の「第一コリントの手紙10章13節」にこのような聖句があります。
【あなたがたの会った試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなた方を耐えられないような試練に会わせることはない ばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も、備えてくださるのである。】
この聖句が言っていることは、どういうことなのか、この文章をもう少し分かりやすくするために、太字の部分の意味について述べてみます。
試練
試練とは誘惑です。悪魔は私達を、いつ、どこで、どのように誘惑したらよいかを、知っています。私達は聖霊の導きに従っているなら、悪魔の策略を見抜くことができます。
どれほど強い誘惑をうけるかではなく、どれほど信仰深く抵抗するかによって、わたしたちの成功が測られます。
天の神の助けを求め、悪魔のあらゆる誘惑に立ち向かえるように祈ることです。
世の常
わたしたちは皆、受ける誘惑は異なっているかもしれませんが、すべての人が誘惑されます。誘惑は必要なのです。
「悪魔が人の子らを誘惑するのは、必要である、そうでなければ人の子らは、自ら選択し、行動する者とはなれない」からです。
神は真実である
真実である、とは 信頼できる、忠実な神は、私達が誘惑に耐え、誘惑から逃れられるよう、助けてくださる。という神の約束をわたしたちは、信頼することが出来ます。
耐えられないような
わたしたちは、誘惑を避けるようにするべきです。しかし時々誘惑を受けてスグにそれを、拒絶することが出来ないために誘惑から逃れるのが、難しくなることがあります。(預言者のニール・A・マックスウエルは、次のように教えております)
「もちろんイエスは、御自分に降りかかってきた途方もない誘惑に、気ずいておられました。しかしイエスは、それらをいつまでも心に留めておくことはされず、即座にそれらを避けられたのです。わたしたちも、受けた誘惑に心を留め、もてあそんでいると、誘惑にもてあそばれてしまうようになります。」
耐えられるように
聖文には、私達が誘惑に耐えられるよう、自分の責任において誘惑を避けるのに役立つ秘訣を、幾つか与えています。例えば
*いつも気をゆるめず、絶えず祈りをもって日々を過ごす。
*イエス・キリストに頼る。なぜなら「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを、助ける事ができる」からです。
*高慢にならないようにする。「あなた方は主の前にへりくだり、高慢に気を付けなさい」とイエス様は言っておられます。
*「神の言葉に聞き従って、それにしっかりつかまりなさい」 等
のがれる道
逃れる道が常にあります。すなわち、「別の選択をする」「別の場所に行く」「別のことを行う」などです。
ほかのすべての方法が失敗した場合、ただ、逃げてください。
試練は私達が成長するために、神が与えるものです。そして人によって試練は、違います。しかし、耐えられないような試練は与えない、と言われております。
だから私達がそれらの試練に、打ち勝って前進することが出来た時、喜びや幸せや、成功を得ることができます。