デイター・F・ウークトドルフの話から
律法学者と石鹸職人
神を信じなかった石鹸職人に関するユダヤの古い物語があります。
ある日、律法学者とともに歩いていた石鹸職人が言いました。「わたしには理解出来ないことがあります。私達には何千年も宗教があるのに 悪い、腐敗、不正直、不正、苦しみ、飢え、暴力、が至る所に見られます。宗教は少しも世の中を良くしていないように思うのですが、そこでお尋ねしたいのですが、宗教は何のためにあるのですか?」
律法学者は、しばらくの間答えずに石鹸職人と共に歩きつづけました。やがて二人は、子供達がほこりまみれで土遊びをしている遊び場にさしかかりました。
そこで律法学者は言いました「私にも理解出来ないことがあります」「あの子供たちを見てください。私達には何千年も石鹸があるのに、あの子供たちは汚れています。石鹸は何のためにあるのですか。」
石鹸職人が答えました「でも律法学者さま、汚れたあの子供たちを引き合いに出して石鹸を責めるのはお角ちがいです、石鹸は使われなければ、その目的を果たすことは出来ないのですから」
律法学者は微笑んで言いました。「その通りです。」
私達はどのように生きたらよいのでしょうか
イエスの使徒パウロは、旧約聖書の預言者の言葉を引用し、信者であることの意味について端的にこう言いました。「信仰による義人は生きる」
この簡潔な言葉から、弱くて影響力を持たない宗教と、人生を変える力を持つ宗教との違いを理解することが出来るかもしれません。
しかし宗教によって、生きるとは何かを理解するには、まず信仰とは何かを理解する必要があります。信仰とは単なる信念ではありません。それは神を完全に信頼し、それに伴う行動を起こすことです。単なる願望でもありません。
ただ傍観し、うなずき、賛成します、と言うことでもないのです。
「信仰による義人は生きる」とは、信仰によって導かれ、進むべき方向が示されることを意味します。
信仰をもつ私達は、自らの信仰と調和した行動をします。盲目的な従順によって行うのではありません。神への信頼と心からの愛によって、また神がその子供たちに明らかにされた、きわめて貴い知恵によって行動するのです。
信仰には行動が伴わなければなりません。そうでなければそこに命はないのです。(モルモン書のヤコブ書2:17に「同胞を自分自身のように思いなさい。そして、すべての人と親しくし、あなた方のように彼らも豊かになれるよう、所有物を惜しみなく与えなさい」という聖句があります)
人ひとり変える力のない者に、世界を変えることなど出来ないのです。
信仰のある男女は、確信が持てないときでも、また物事が完全に見えず、はっきりと理解出来ない疑いと逆境のときでさえ、憐れみ深い天の御父を信頼します。
信仰のある男女は、弟子としての道を熱心に歩み、愛する救い主イエス・キリストの模範に従うべく努めます。
信仰は私達の心を天に向けるように、また同胞に進んで手を差し伸べ、彼らを高め、祝福するように励まし、実に霊感を与えてくれるのです。
行いのない宗教は、箱に入ったままの石鹸のようなものです。つまり素晴らしい可能性を秘めているにもかかわらず、実際には意図された目的に使われるまで、何の影響力も発揮できないのです。
イエス・キリストの回復された福音は、行動の福音です。イエス・キリストの教会は、希望、信仰、慈愛のメッセージである真の宗教を教えていますが、それには霊的にも、物質的にも、わたしたちの同胞を助けることが含まれるのです。
一貫した行動を伴う信仰は、心を親切心で、思いと知恵と理解で、魂を平安と愛で満たしてくれます。
そのようにして、信仰による義人は、行いを伴って生きるのです。すなわち義人は、神を信頼し神の道を歩むことによって、生きるのです。
このような信仰こそ、個人を、家族を、国を、そして世界を変えることが出来るのです。
まとめ
信仰とは、単に信念を表明することではない。
天の御父と、イエス・キリストを信じる真の信仰には、行いが必要です。
信仰によって生きることは、人生と家庭を変える力があります。